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 『グロテスクな教養』について少し書いたが、自分自身が過剰にアイロニカルな姿勢をとってしまったようにも思える。いや、かなり良い本なんです。

 現代と1930年代が、「教養」のひとことでつながっていることは大変興味深い。現在「教養の低下」が叫ばれるが、1930年代にもいわゆる「事変後の学生」(満州事変後に旧制高校などに入学した世代)の教養低下が叫ばれ、『学生叢書』といった教養マニュアル本が盛んに出版されたりした。

 逆説的にも、「教養主義批判としての教養」の論理からすれば、このような時代こそ教養主義が盛り上がる時代だといえる(ということは、これから教養主義復権するのか? わからない)。

 あと、私が共感を持って読めたのは、著者がドイツ文学専門であり、日本における外国文学者の二重生活、つまり「語学教師」と「文学者」という二重生活を熟知しているからだろう(ちなみに、氏は経営学部所属であり、大学ではいわゆる「語学教師」のはずである)。最近書かれている「教養」論は、教育学、教育社会学の方面からのものが多く、大学の語学教師というものが抱えている矛盾、というか、大学の語学教師が矛盾した存在にほかならないという視点は希薄である。

 矛盾した語学教師/文学者の伝統は、もちろん夏目漱石に始まるわけだけれども、著者は『三四郎』の広田先生=「偉大なる暗闇」にその典型を見る。大学で語学を教え、自分の「専門」はそれとは切り離し、しかもものを書き散らすことを潔しとせず、何年も「業績」を作らない……高田氏はこの「教養」のありかたを、太宰の『人間失格』のやりとりをもじって「『教養』のアント(アントニム・対義語)は『業績』」と痛快に表現する。

 十年どころか百年一昔といった感じで、こと大学語学教師に関してはなんにも変わってないのだなあという感慨をもちつつ、いや、今や語学教師で食っていくこともままならないではないか、とも思う(「業績」つくらいないといけないし。「偉大なる暗闇」なんて言ってたら、そのまま闇の奥です)。

 あとは、最後の「女の子の教養」の問題。私の大学は典型的な「リベラル・アーツ女子大」だが、日本の女子大に文学部をその典型とするリベラル・アーツ大学が多いのは、獲得資本としての「純粋教養」を学び、それによる階級上昇をはたすためである。

 ありていに言って、つまり、「男探し」のための教養、というわけ。

 と、いう議論はすでにあるわけだが、高田氏はさらに議論を進めて、現代はその「男探し」が無効になっていると説く。そりゃそうだ。男の方でも、学歴を積んで終身雇用の企業や官庁に雇われ、あとは黙っていても昇進、といったライフコースが破綻しつつあるわけだから、探すに値する男がいなくなっているのである。(ちなみに、この現象も30年代と現代が共有している側面だそうな。)

 ということは、氏の述べる通り、「男探しの衰退とともに、現在では、女の教養を売りにした『お嬢様大学』は受験生確保において苦戦を強いられ」ることになる。あーあ……正しすぎて、イヤになっちゃいます。

 では、それにかわる「女の教養」とはなにか、ということについては、『グロテスクな教養』には示されていない。

 例えば、昨今の心理学人気(本学もそう)が「いかに生くべきか」という、ほとんどメロドラマ的・週刊誌的「教養」への関心に支えられていることは直感的に分かる。しかし、問題は、心理学という教養を身につけることが、社会関係においてどんな意味をもつのか、明らかではないということ。つまり、かつての英文学のような「獲得資本」という象徴的価値をもつものではないし、心理学部を卒業する学生が心理療法士になれるわけでもない。では、文学が「いかに生くべきか」を教える地位を取り戻すべきなのか、そうだとしてもそれはできるのか……

 なんて考え始めると、「偉大なる暗闇」として、粛々と英語を教えていたほうが(それが許されるなら)楽だよなあ、なんて気分になってきます。