補遺としての翻訳

 東京では、英文学会の関東支部による「翻訳ワークショップ」が行われたそうである。報告はこちら(http://d.hatena.ne.jp/hspstcl/20060812)。ワークショップでは、「最近でた批評書の訳文を(かなり厳しく)検討」したそうで、少しく翻訳をしている私としても、槍玉にあげられないことを祈るばかりである。

 ところで、この業界では翻訳は二次的な業績である。業績評価の際には、「著書」「論文」が第一であり、「学会発表」「その他」が続く。「翻訳」はその学会発表やその他と同じか少し下の評価しか受けない……ことになっている。

 しかし、実情はそうではないような気がする。翻訳大国日本において、外国文学研究者にとっての翻訳は「非本来的であるけれども欠かすことのできない仕事」であり、脱構築でいう補遺のような存在である。だから、現実には業績を審査する際、翻訳書が刊行されていることは結構な影響力を持ったりする。

 だが、公式には大学院で翻訳が教えられることはない(東大の柴田元幸という例外がいるが)。実際、文学研究者がどうやって翻訳の腕をみがくかというと、(1)大学院の師匠もしくは他の先生に翻訳の仕事を仰せつかる (2)とりあえず、訳してみる (3)文字通り、真っ赤になった原稿が返ってきて、トラウマとなる (4)必死で原稿を修正し、経験的に訳稿のつくり方を体得。こんな感じが典型的だろうか。ただ、私は「翻訳の腕」などといって、技芸として翻訳を見ることには抵抗がある。当該の言語能力と日本語能力、そして対象となる本についての専門的知識、これらがある一定の水準に達していれば、あとは経験の問題だと思うから。