『アメリカン・フィクション』(2023)

しばらく諸々で忙しすぎて映画館に行く暇もなければ家で映画を見る暇もなかったのですが、そんな合間にこちらを。

黒人の作家が、自分の純文学指向をかなぐり捨てて、おふざけで書いた「黒人的」小説──白人たちが期待するような「黒人的」内容の小説──が大ヒットしてしまう、という概要だけを目にして、ある種の「ポリコレ/ウォーク揶揄」のあれかと警戒して観たのですが、結論からいうとそういうものではなく、かなり面白く観ました。

これはもはや民族(「人種」)だけではなく、現代社会に向けてものを書くこと一般につきまとう書き手のアイデンティティの問題を広く考えさせるものになっていると思います。書き手というものは、自分の単独的な経験を抱えもってものを書いているのだけれども、世間にとってそんなことはどうでもいい。アイデンティティ=属性の箱の中に放りこまれ、書いたものを本当の意味では読んでもらえない(放りこんだ属性に関する偏見のメガネを通じてしか読んでもらえない)という経験は、ものを書く人なら誰しも経験しているのではないでしょうか。この映画、そういう一般的経験に訴えるものになっていたと思います。そういう意味で面白く観ました。

猫依存〜『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』(2016)

2月22日はニャンニャンニャンの猫の日ということで、何か猫関係の映画を観たいなと思ってこちら。ベストセラー本となった実話を元にした映画です。

ロンドン。麻薬常習者のホームレスのジェームズはなんとか更生しようと苦闘している。ソーシャルワーカーのヴァルはこれが最後のチャンスだと感じてジェームズに住居を見つける。そのフラットに迷いこんできた野良猫(ボブ)が、ストリートミュージシャンであるジェームズに思わぬ幸運をもたらす、というお話。

まず、イギリスでのホームレスの問題というのは深刻の度合いを減らすどころか増している状況。この映画が公開された2016年は私はちょうどサバティカルでイギリス(ウェールズ)にいましたが、都市部(そんなに大都市である必要はない)のホームレスは日常的に目にするし、ホームレスに余ったサンドイッチをあげるといったこの映画でも描かれる行為も普通に見られました。

ホームとホームレスネスをめぐる映画といえばやはりまずはケン・ローチで、古くは『キャシー・カム・ホーム』がありますし、『SWEET SIXTEEN』も「家」が重要な役割を果たします。最近ではイギリスではなくアイルランド映画ですが『サンドラの小さな家』がありました。アイルランドも住宅問題がひどいことになってますね。

日本も不動産バブルが起こっていますが、バブルで金融資本家たちが沸きかえる中、住む場所を失う人たちが出るという、アイルランドやイギリスで起こっていることが日本でもこの後激化するかもしれません。

で、映画ですが、どうしても気になるのは、ジェームズはストリートパフォーマンスや、『ビッグイシュー』販売で成功するのですが、それが全部猫のおかげで、誰も彼の歌を聴いてないし、『ビッグイシュー』の中身に興味があるわけではないという点です。

しまいにはジェームズは、薬物依存からは脱するけど猫依存になっていないか? と心配になりました。ボブが姿を消した時のジェームズは薬を断ったジャンキーそのものです。

しかしその一方で、あらゆる依存を断たなければならないという考え方も退けるべきでしょう。私たちは多かれ少なかれ依存的にしか生きられない。いかなる相互依存の社会を作るかということ、どのように依存しないかではなく、どのようにうまく依存し合うかが鍵だと思うのです。その意味で、ジェームズが薬物依存から猫依存になったというのは、まったく問題ないどころか歓迎すべき事態なのでしょう。この映画は私たちの社会が猫依存社会であることを鋭く指摘しているのかもしれません(?)。(でも、猫映画をいくつか考えてみても、猫が社会の裏側で人間を支えている的なのは多いような。)

『枯れ葉』(2023)

カウリスマキ監督の「復帰」作。観なきゃ観なきゃと思ってて気づけば終わりそうなので慌てて。

昨日あたりからなぜかメンタルが落ちてたんですが、1時間20分のこの短めの映画を観終わって、すっかり気分が晴れている自分に気づきました。不思議。そんなに「元気が出る」系の映画ではないはずなんですけどね。でもなんだか、感謝です。

カウリスマキらしく、肉体労働者たちの生をコミカルなまでに削ぎ落とした表情とアクションで描く。筋立てもごくシンプルなんだけど、それをここまで見せるのはさすが。ずっと見ていたい、この映画世界にずっととどまりたいと感じさせるのは、先日の『夜明けのすべて』に通じるものがありました。

ところで、主役の2人が初めてのデートで映画に行くのですが、その映画がジム・ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』なのには笑いました。両監督に親交があるとか、カウリスマキが映画を引用しがちとかあるわけですが(そこで他の観客が「ゴダールを感じた」的な的外れな感想を言っているのは観客やシネフィルに対する毒のあるアイロニーだなと思いましたが)、初デートでその映画かよ、という笑い所。でもその映画でOKであったゆえに、2人の感性が一致していることが強調されるわけですけど。『デッド・ドンド・ダイ』、評判は悪いですが私は好きでしたが。

初デートでとんでもない映画に行くといえば『タクシードライバー』ですね。結果は正反対ですが。引用でしょうか。

デートに適さない映画と言えば、『哀れなるものたち』を何も知らずにデートで観に行って終わった後にお通夜みたいになっているカップルの目撃談を複数聞いてます。

あとはとにかく犬がかわいい。私は猫派ですが、人生で一番かわいいと思った犬でした。あの犬なら飼いたい。

「原作に忠実」とは〜うずめ劇場『地球星人』

村田沙耶香の『地球星人』の舞台化ということで、観てきました。

とにかく原作に忠実に作っていくという意思が見られ、その妥協のなさが3時間半という上演時間にもつながっているのですが、その長さを感じさせないテンポのよい芝居でした。ただし、「忠実」とは言っても、プロットなどをなぞるというだけの問題ではありません。小説の原作の「精神」に忠実であるためには相当の工夫と努力が必要になり、それをみごとになし遂げた舞台だと思いました。

小説の舞台化や映画化に必ず伴う難題は、小説のナラティヴをどうやって移し替えるかということだと思います。とりわけ、語り手をどれだけ信用していいかわからないタイプの小説における、出来事と読者/観客との距離は、舞台/映像では意外と表現が難しい。

例えば最近だと『哀れなるものたち』ですが、あの映画は原作のメタフィクション性を表現するのは諦めましたよね。あれはあれで賢明な選択だったと思います。

今回の『地球星人』の場合は、数種類のナレーションを入れることで小説のナラティヴの舞台的な再現が試みられました。それ自体は大発明というわけではないでしょうけれども、ここでも原作を再現しようというリスペクトが感じられましたし、効果的だったと思います。

役者さんは大変だったろうなあと思います。どれくらい観客にマジに受け取ってもらうのかという塩梅が。まあおそらくその辺は考えすぎずに全力で演じるんだと思いますが、それはそれで村田ワールドに「持っていかれそう」で怖い……。それにしても主人公の奈月の少女時代を演じた春名風花さんと現在を演じた後藤まなみさんの演技がそれこそ鬼気迫るものがあり、すばらしかったです。3時間半、舞台の推進力になり続けることは生半可なことではないです。拍手。

で、ここから先は今回の舞台というよりはほとんど原作の小説の話になってしまいますが【ネタバレ注意】、この作品の前半は性暴力とガスライティングがテーマになっているように見えます。奈月は塾講師に受けた性暴力について、母から自意識過剰であり性的に受け取ったお前の勘違いだというガスライティングを受けるわけです。これは現在、ハラスメントや性暴力の被害をなかったことにし、被害者を責める手法の基本になっているやつです。

なかなかに困難なのは、このガスライティングを問題にすることと、村田沙耶香の十八番とも言える、この場合は『地球星人』というタイトルに表現されている、支配的な「常識」の転覆との関係です。というのも、村田作品は支配的な「常識」の転覆(そしてそれに付随するかもしれない常識の批判)を中心とするのですが、ガスライティングもまた被害者の「常識」を徹底的に、ポストトゥルース的に破壊することを基本とするのです。

つまり、村田作品は常に、危険にも陰謀論ポストトゥルースに接近するところがあって(それは火中の栗を拾うような、必要な挑戦だと思うのですが)、それをどう考えるのかが鍵なのです。

『地球星人』の場合は、終盤の過剰さはその問題を徹底操作するために存在すると私は思っています。一見、序盤の性暴力の問題は後半に直接的には霞んでいくようにも見えますが、上記のような陰謀論的構造をいかにして徹底操作して脱するかという難問に、この作品は取り組んだのだと思います。

結末で3人は、本当に新たな存在になって歩み出します。これは決して「狂気の果て」といったものではなく、非常に爽やかな、希望に満ちた旅立ちのように私には読めました。今回の舞台版の観客がみなそのような希望をラストシーンに感じとったかどうかは分かりませんが、私は少なくとも感じました。その意味でも、原作に最良の意味で「忠実」だったのではないでしょうか。

 

追記:これを書いた後、出演者の一人の吉村元希さんとのやりとりで気づいたことのメモ。一つ、山道を車で走る場面で運転手が右にハンドルを切ったら同乗者たちの体が右に振られる、という演出があり、それは実際は逆だろうと思って(右に切ったら同乗者の体は左に持っていかれる)そう指摘したのですが、まあそれは演出のお約束みたいのもありますよねとは思います。

ただ、よく考えると、この作品では車酔いが妙に重要なモチーフになっていて、ひょっとすると上記のガスライティングや常識のキャンセルの問題と車酔いって響き合ってるんじゃないかと気づきました。

吉村さんのご指摘では、車酔いがひどい人は車が曲がる方向に体を傾けて酔いを防ぐそうです。つまり、「工場」の常識に体の傾きを合わせないと、ひどく酔ってしまうかもしれない。この作品は、徹底的に体を逆に振って徹底的に車酔いするとどうなるかという話なのかもしれません。

リアリティ番組とデスゲームものの彼岸〜『ロブスター』(2015)

『哀れなるものたち』で話題沸騰?のヨルゴス・ランティモスの初英語作品。未見でした。

私、近著(『はたらく物語』『正義はどこへ行くのか』)でリアリティ番組とデスゲームものについてそれぞれ論じたのですが、その二つの関連性をしっかり論じられていないことに、これを観ながら気づきました。

というのもこの映画、完全に、ハリウッドであればマリブの豪邸に男女を集めて恋愛をさせるようなリアリティ番組と、日本であれば『バトル・ロワイアル』以来のデスゲームものの両者をごたまぜにしてパロディ化しつつ批判するような映画だからです。

異性愛が強制される近未来社会で、パートナーを失った主人公たちは豪邸に集められ、期限までにパートナーを見つけられないと動物に転生させられるという設定。主人公は転生先にロブスターを選ぶ。主人公は中盤でこの屋敷から逃亡し、森の中のレジスタンス集団(?)に所属するものの、今度はこのレジスタンス集団は恋愛を厳しく禁止していて……。といった物語が、ランティモスらしいかなりシュールな台詞やアクションで進められていく。

屋敷がリアリティ番組のパロディで、森のレジスタンスがその外部かと言えばそんなことはなく、あのような「反乱」はすでに映画的な物語ではお馴染みのものになっていて(『バトル・ロワイアル』そのものがそうだし、あとは『ハンガー・ゲーム』など)、この映画のアイロニーはそこにまで及ぶと考えるべきでしょう。

ポイントとしては、異性愛カップリングを極端に強制する社会とそれを禁止する社会のあわいで、主人公が「真の愛」を見いだす、という構図になっていたらそれはつまらないなあ、というところなのですが(そしてそのように読むことも可能にはなっているのですが)、その「愛」の表現が、大いに曖昧性もはらみつつ、並々ならぬものになっているところでしょうか。

『夜明けのすべて』(2024)

『ケイコ 目を澄ませて』の三宅唱監督の新作。

前作と同様に素晴らしい傑作でした。途中、どこで終わっても自然に感じるだろうけれども、同時にいつまでも続いて欲しい時間。そして彼らの生活はエンドロールの後にもずっと続いていくのだろう(全ては変転するし、人生に終わりはあるだろうけれども)という確かな感覚。そんな感覚を抱かせる映画は希有だと思います。

人間は孤島であり、とりわけ共有できない苦しみや喪失を抱えるときにその事実は重みを増していくのですが、もっとも親しい人とさえも本当の意味では共有できない苦しみを抱え、他者も同じ孤島に住んでいるのかもしれないと気づいた瞬間にこそ、かろうじて少しだけ他者に触れる可能性が開かれる……。苦しみや喪失は、繋がれないという事実を突きつけることによってこそ人を繋げる。そういう瞬間を、脚本、演技、カメラと照明と音声、そういったものすべてを奇跡的にかみ合わせることで見せてくれる映画です。本当にすばらしい。

PMSに苦しむ藤沢とパニック障害に苦しむ山添を受け入れる中小製造業の栗田科学が、あまりにもユートピア的で善人ばかりだという意見もありそうですが、もう一方で、この世の中の人間はあのように善良たり得るのだという信をもって描くことを「決断」した映画なのだろうと私は思いましたし、それを歓迎したいです。

否定形での評価はしたくないですが、障害を情動的に消費しないこと、異性愛規範に凝り固まった人間関係は描かないこと、プロットのために登場人物を動かすということをしないこと(だけど、説明過剰ではないさりげない演出で心の動きを確実に描いていくこと)、そういったことが徹底されていて、こういう映画をずっと観たかったと感じました。

今年は早速に傑作が多すぎません? 終演後、家族にたい焼きを買って帰りましたとさ。

『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』(2023)

ダンジョンズ&ドラゴンズ、確か中学生のころにプレーしてて、『ロードス島戦記』とか『ドラゴンランス戦記』とか、スピンオフの小説も夢中になって読んでました。

ということで今回の映画化は気になっていたのですが、コロナ明けでようやく公開されたのをようやく配信で。

エンターテインメントとして非常によくできていたと思います。個人的にはヒュー・グラントがなんとも言えずよい。この人は若いときからうさんくささというか偽物感というか、そういうものを醸し出させたら天下一品であったと思うのですが、老境にいたってそれに磨きがかかったというか……。

ディズニーの『ウィッシュ』のマグニフィコ王はヒュー・グラントっぽいのだけど、むしろ『D&D』の主役エドガンのクリス・パインが演じたというのが面白いところです。クリス・パインもいい嘘くささをまとった役者ですね。

ところで、映画の感想はそれくらいなんですが、観ながら思いだしたのは、私は上記の『ドラゴンランス戦記』の中でも、マジックユーザー(魔法使いなんですが、D&Dの話をするならこう呼ばないと)のレイストリン・マジェーレが大好きだったこと。レイストリンはファイターのキャラモンの双子なのだけど、身体虚弱でずっと咳をしている。だけど魔法には長けていて、若くして「大審問」というテストに合格した、という設定。性格はねじくれてて仲間ともうまくはやっていけないけど、時々ツンデレ的に善行をする、という感じだったと記憶してます(なにしろ30年以上前の話なので……)。

善悪で言うと中立の赤いローブを着ているのですが、それが「闇落ち」して黒ローブを着るようになる。その辺のくだりがたまらなく好きだった私はどんな子供だったんだろう……。(というか上記のヒュー・グラントといい、私は嘘くさいものとか悪いものとかがどうも好きなんですね。)

それにしても、D&Dは、現代的なRPGの源流ということもあるのですが、自分たちでストーリーを想像/創造するという参加型の文化であり、それが上記のようなメディアミックスで展開していったというのは、いわゆるコンヴァージェンス・カルチャーの代表例のひとつですね。研究とかあるんだろうか。ありそう。

ということで、昔話でございました。