ヴィスワナさんさん

 本日はGauri Viswanathanさんのセミナーに野次馬、のつもりが意外とこぢんまりとした会で、参加者が全員自己紹介をするような感じ。

 告白すれば、Masks of Conquest以来、訳したサイードのインタヴューを除けば、フォローしてなかったのだが、オカルティズムに焦点を当てた最近の仕事が、上記の本と連続していることがよく分かる。

 今回はインド出身の数学者、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887-1920)について。正規の教育(つまり植民地教育)を受けていないにもかかわらず、「天才的」数学者としてケンブリッジのG. H. ハーディに見いだされ、論証をろくにしない直感的・場合によっては秘教的な数学で西洋の数学界を驚かせたというひと。(恥ずかしながら、まったく知らなかった。)

 基本的には、ラマヌジャン本人ではなく、伝記を中心としたその表象を問題としていくのだが、一方には彼の「前近代性」を強調する伝記、他方には西洋近代の合理性のディスコースに彼を包摂しようとする伝記があって、前者はオリエントをロマン化する言説、後者はオリエント性を単に消去しようとする言説だといえる。

 ラマヌジャンのインド性を強調する言説はもちろん、モダニティにおいて失われたものへの希求をロマン主義的に(疎外論的に)オリエントへと投影するオリエンタリズム的言説に取りこまれるわけだが、それは西洋近代の構成的他者として西洋近代の全体性を担保する機能をはたす、とここまでは教科書的。

 Viswanathanさんの今日のレクチャーの肝はその先で、特に彼を見いだしたハーディとの関係において、そこには西洋と非西洋がどうしようもなく相互依存的(=相互保存的/相互破壊的)になってしまうモメントがあり、ラマヌジャンはそこに彼独特の魔術的・オカルト的数学という毒を流しこむ。それは構成的外部であることをやめ、むしろ構成的内部/外部の区分を攪乱するような「間」性となる、というような話。(かなり再構成。)

 この結論部分について、ラマヌジャンの形象にそのような積極的「抵抗」「攪乱」のモメントを求めるより、むしろ彼が「天才」として表象され、彼を構成的外部として包摂しようとする交渉が行われたこと自体が、20世紀初頭の脱植民地化の過程の「症状」なのではないか(だって、包摂を志向しこそすれ、「天才」と表象された「オリエンタル」はそれまでいないのではないか?)、というようなことを考えて無謀にも質問したがありうまく聞けず(やっぱり、修行が足りないな)。

 それはともかく、「天才」とか「ロマンティックな」という言葉を説明抜きでベタに使いながら、実は話の流れからしてそこには明らかな批評自意識がこめられているあたり、やるな、と思いましたよ。(何様じゃ。)

追記:そうそう、サイードへのインタヴュー集Power, Politics and Cultureを訳しましたよという話をしていたら、「版権契約の話は来たけど、本が送られてこないんだけど……」とのこと。それを知ってたら今日持っていったのに。訳書が出た場合、出版社から原著者には送らないものなのだろうか。