3月のシンポジウムの文字起こしが届く。鬱になる。
私、やはり(どちらかといえば)エクリチュールの人だ。これだから人前でしゃべりたくない(教員失格?)。これ、某誌に再録されるわけだが、「いなかったこと」にできないのかなあ……
鬱になりついでに、最近はアウトプットばかりでインプットが足りず「すり切れ」状態であることを憂う。もともと勤勉ではなく勉強が足りないところに、節操なく書いたりしゃべったり。いい加減にせねば。できればしばらく引きこもって、思いつくままに本を読むような生活をしてみたい。と言いつつ、8月末、10月、11月にはすでに「予約」が。ああ。引きこもりたい。
しかし、同僚をして「トライアスロンのような」と形容せしめたオープンキャンパスが終わるも、まだ授業は終わらず。夏休みは遠く短い。
ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」
- 作者: パオロヴィルノ,Paolo Virno,柱本元彦
- 出版社/メーカー: 人文書院
- 発売日: 2008/03/01
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 46回
- この商品を含むブログ (23件) を見る
半分読了。インパクトがある本は途中でもレヴューするのがこのブログの常だが、この本もそう。
フーコーとチョムスキーの対談を枕にポストフォーディズムと認知科学の問題に切り込む。フーコーが「人間本性」を(唯物論的)歴史に常に差し戻すなら、チョムスキーは人間本性=メタ歴史を決して手放さず、そこから社会変革の契機を見いだそうとする。ヴィルノはその双方を否定し、ポストフォーディズムにおいてはそのまさに「人間本性」が労働の現場で重視され、かつ収奪される様に注目する。*1
もちろんこれは、第三の文化について私が某コラムで書いたことに見事に合致する。グローバリズム=新自由主義=ポストフォーディズム下における労働者は、潜勢力としての能力をフレキシビリティをもって「パフォーム」することを求められる。「能力」とは常に潜勢力であって、それが現実態となるのは労働者によるパフォーマンス、もしくは「名人芸」によってのみなのだが。
突然であるが、内田樹の武道論などは、この文脈で歴史化されるべきだろう。彼が常に強調する、「居ついていない状態」というのは、労働者が突発的事態に対して潜勢的能力をフレキシブルにパフォームできる状態のことであって、その点で彼の武道論はポストフォーディズム下の正しい労働者になるための指南書にほかならない。
そして、「能力」を潜勢力のままに留め置いて、それをパフォームせず、引きこもりたいと欲望している私です。