私は貝になりたい

 3月のシンポジウムの文字起こしが届く。鬱になる。

 私、やはり(どちらかといえば)エクリチュールの人だ。これだから人前でしゃべりたくない(教員失格?)。これ、某誌に再録されるわけだが、「いなかったこと」にできないのかなあ……

 鬱になりついでに、最近はアウトプットばかりでインプットが足りず「すり切れ」状態であることを憂う。もともと勤勉ではなく勉強が足りないところに、節操なく書いたりしゃべったり。いい加減にせねば。できればしばらく引きこもって、思いつくままに本を読むような生活をしてみたい。と言いつつ、8月末、10月、11月にはすでに「予約」が。ああ。引きこもりたい。

 しかし、同僚をして「トライアスロンのような」と形容せしめたオープンキャンパスが終わるも、まだ授業は終わらず。夏休みは遠く短い。

ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」

ポストフォーディズムの資本主義―社会科学と「ヒューマン・ネイチャー」

 半分読了。インパクトがある本は途中でもレヴューするのがこのブログの常だが、この本もそう。

 フーコーチョムスキーの対談を枕にポストフォーディズム認知科学の問題に切り込む。フーコーが「人間本性」を(唯物論的)歴史に常に差し戻すなら、チョムスキーは人間本性=メタ歴史を決して手放さず、そこから社会変革の契機を見いだそうとする。ヴィルノはその双方を否定し、ポストフォーディズムにおいてはそのまさに「人間本性」が労働の現場で重視され、かつ収奪される様に注目する。*1

 もちろんこれは、第三の文化について私が某コラムで書いたことに見事に合致する。グローバリズム新自由主義=ポストフォーディズム下における労働者は、潜勢力としての能力をフレキシビリティをもって「パフォーム」することを求められる。「能力」とは常に潜勢力であって、それが現実態となるのは労働者によるパフォーマンス、もしくは「名人芸」によってのみなのだが。

 突然であるが、内田樹の武道論などは、この文脈で歴史化されるべきだろう。彼が常に強調する、「居ついていない状態」というのは、労働者が突発的事態に対して潜勢的能力をフレキシブルにパフォームできる状態のことであって、その点で彼の武道論はポストフォーディズム下の正しい労働者になるための指南書にほかならない。

 そして、「能力」を潜勢力のままに留め置いて、それをパフォームせず、引きこもりたいと欲望している私です。

*1:ちなみにヴィルノはこの言葉は使わないし、非常にミスリーディングな言い方かもしれないが、ヴィルノフーコー=社会構築主義チョムスキー本質主義の両者の隘路を指摘し、それを超える道を指ししめしている──というか、ポストフォーディズム状況そのものがその両者を食い物にしていることを指摘する──わけで、構築主義か、本質主義か、みたいなところでネチネチやっている人たち(という言い方には悪意があるなあ)も、ぜひ読んで欲しい本である。