『罪の声』(2020)/『母性』(2022)

この二本をまとめるのは、単に今日のゼミで学生が発表の対象作品に選んだから、ということではあるのですが、学生運動が歴史的な背景になっているのが偶然にも共通してました。私は別に当時の学生運動を擁護したくもないですが、このように物語的に使われた時に、現状肯定のための道具にしかならないというのがどうも気になります。

『罪の声』はとりわけそのメッセージ性が強いですね。グリコ・森永事件を題材に取り、その真相の仮説を映画にしたもの(原作小説は塩田武士による2016年の作品)。あの事件で脅迫電話に使われた子供の声の持ち主・曽根を星野源が演じ、やがて新聞記者の阿久津(小栗旬)とともにバディを組んで真相に迫っていく。星野源、バディを組みがち。

主犯の背景には学生運動(の敗北)があって、江戸の敵を長崎で取ろうとしたという話なんですが、その辺ですごく薄っぺらくなるというか、お前の「社会変革」は何人かの人間を不幸にするだけだったんだバカヤロウと言って、最終的に阿久津が社会派(そして社会部)の記者として目覚める(目覚め直す)、そして声なき声に耳を傾けるのだと言う、みたいなのは、ちょっとな、と思います。いや、繰り返しますが、新左翼運動が良かったとはこれっぽっちも思わないんですが、なんだか学生のレポートによくある、「メディアが問題だと思います」「教育が問題だと思います」みたいな定型的な結論を読まされている感じもあり、学生運動が現状肯定のためだけに使われている感じがあり。

それより気になったのは、新聞の文化部をバカにして、本当の仕事は社会部だ、みたいなマッチョなヒエラルキーが最初から最後まで崩されないのはいかがなものかと思いました。

『母性』もなかなかにキツい映画(いろんな意味で)。愛しすぎてしまう母娘関係の地獄とそこからの解放(?)ということですが、「女には二種類しかない、母と娘である」といった地獄のような台詞(大意)が出てきてしまうのはなぜか、女が「個人」になれないのはなぜかと言えば、これははっきり家父長制なわけです。そこを問わないようにしている(明らかにダメな父とはいつの間にか心理的に和解していたり)のは、どうなんだろうと思います。そして最後は出生主義へ。

ただ、いずれの映画も階級を問題にしているのは面白い点でした。『罪の声』では今ではテイラーを継いで家族を持ち、幸せな曽根と、完全に人生を奪われたもう一人の「声」の主との境遇の差異は、ごく一般的な、偶然に生まれ落ちた階級的な境遇の不条理の話になっている。一方で『母性』は実は階級没落、というかかなり上の方であるらしいアッパーミドルの娘が農家、といっても富農の家に身を寄せることになり、という階級移動の物語になっています。

『母性』における階級をめぐって注目すべきなのは、上記のような家父長制の地獄を生み出しているはずの男たち。田所家の父はすでに他界しているが、息子の哲史(ルミ子の夫)に暴力を加えていたらしく、そのためかおそらく息子は家を出てブルーカラー労働者になっています。そのような過去を抱えた彼が、田所家の家父長制の外部、場合によっては対抗勢力になり得るのだけど、彼は不思議な沈黙と奇妙な不倫をするだけ。いや、あの不倫は田所家の家父長制(現時点では高畑淳子が強烈に演じるルミ子の義母が一手に代表)への反乱という意味があり得たのですが、清佳(ルミ子の娘)はそれを裏切りとしか見ず(仕方ないことではある)、結果清佳は母ルミ子と共に家父長制の存続に手を貸すことになっています。もちろん映画はそのようなことをおそらくは意図しておらず、哲史の人物像は一貫性のない断片になってしまっている印象です。

二本続けて観て、残ったのは高畑淳子の怪演、あのだみ声でしたとさ。罪深い声。