メモ

 ここのところ、シリトーを読んだりする過程で、イギリスでは50年代にはじめて「イニシエーション小説」的なものが出てきたというテーゼが頭をちらついている。そのテーゼにおいては、19世紀的な「成長」の物語は、成長の物語ではない。つまり、教養小説には現代的な意味での個人の成長は不在であり、むしろ社会的・階級的進展があるだけなのである。

 そんなことを考えつつ、大学院講義で読んでいるウィリアムズの『田舎と都会』には、その移行はジョージ・エリオットにあり、と書いてあることを発見。

George Eliot's novels are transitional between the form which had ended in a series of settlements, in which the social and economic solutions and the personal achievements were in a single dimension, and the form which, extending and complicating and then finally collapsing this dimension, ends with a single person going away on his own, having achieved his moral growth through distancing or extrication. (175)

 とうことで、つまりは、イニシエーション小説的なものに結実する「成長物語」が前提とするのは、それ以前はsingle dimensionにあった社会・経済的なものと個人的達成の「分離」なのである。それは敷衍すれば文化と社会の分離であり、そうなると文化左翼と社会左翼の分離を50年代の「問題」と考えた、神戸での話にもつながる。

 思えば、ウィリアムズの『辺境』はその筋で読めるのかもしれない。秋は大きなウィリアムズ・シンポを計画中で、私もしゃべることになっているが、この話題にしようかしら。

追記メモ:
 この章では「わかる社会knowable community」と「わかっている社会known community」が区別されていることは、意外と厳密には理解されていないかもしれない。といっても私の理解も生半可かもしれないが。

 章の最初の文章は、"Most novels are in some sense knowable communities."という一文で始まっていて、邦訳ではこれを、「ほとんどの小説は〈わかる社会〉を描いたものだ」というふうになっているが、これは決定的な誤訳なのである。これは、もっと直訳されるべき文章なのだ。「ほとんどの小説は、〈わかる社会〉なのである」と。「わかる社会」というのは、田舎に現存するおたがいの顔が分かっているような社会のことではない。いや、そのことでもあるのだが、正確には、「文学的コンヴェンションによって、〈わかる社会〉として表象され、伝達された(田舎に存在すると想定される)社会」のことを、ウィリアムズは「わかる社会」というのである。つまり、〈わかる社会〉は「田舎と都会」の感情構造のうちで選別をうけたコミュニケーション形式によって「わかる」社会のことなのである。これは、神戸でO貫氏が強調した「コミュニケーション」の問題そのものである。

 これに対する〈わかっている社会〉はちょっと定義が難しい。ウィリアムズもかなりあいまいな言い方しかしていない。……と、ここで一生懸命解説しようと思ったが、眠くなったので明日の授業でしゃべりながら考えるとしよう。