シェリー

 といっても詩人のシェリーではなく尾崎豊には『シェリー』という歌があるという話。

 最近、1950年代イギリス小説を「イニシエーション小説」として見るという作業に着手したのだが、これはべつに文学史的な作業をしようというのではなく(最終的にはそうでもあるんだけど)、ウィリアムズの「文化と社会」の分離の系譜にとってそれが重要だからである。この話、先般のワークショップでも、「通じた」というか、ダイ・スミスさんにはかなり得心いただいたようで、路線としてはまちがっていないのだろう。

 しかし、である。現在のたとえば18才は、そこでいうような「イニシエーション」を経験していないという大問題がある。この事実に気づいてからしばらく、機会があるごとに学生に、イニシエーションに類する経験があるのかどうか聞いているのだが、どうやら、ピンとこないらしい。大人に「なる」という経験があるとして、それは就職活動くらいしか思いあたらないという。

 実際、現在の文化的フィギュアには、尾崎豊的人物はいない。

 これはどう考えればよいのか。ひとつには、単純に断絶を見る方法がある。現在の若者にとって逸脱はファッションにさえなりえない。新自由主義格差社会において、逸脱が意味するのはアンダークラスへの落伍でしかなく、「シャレにならない」。「大人になる」契機があるとして、それは単に「経済人」として自らの主体を完成させることでしかない(だから就職活動がその契機)。

 たぶん、このように断絶を見る見方には、「死角」があるだろう。

 イニシエーションというのは、文化と社会や個人と社会の分離の、非常に特殊な歴史的・文化的表現にすぎない。その系譜をたどるとすれば、もちろんそれはロマン派まで遡られるわけで、その意味では尾崎豊シェリー(今度は詩人のね)の末裔なのである。その系譜においては、個人の成長は社会とは分離したところで行われる、というより、社会から一旦分離することこそが成長の要件である。それに比べて、現在起こっていることは個人と社会(といってもこの場合、「社会」は経済でしかない)のあられもないショートカットなのである。見るべきなのは、これらの間にある連続性なのだろうが、いまのところそれがうまい形で思いつかない。

 思いつかないので、とりあえず同僚の某ブログにカエル支援をしときます。うちにすみついてる「主」です。

 あ、それから、9月のウィリアムズのイヴェント、こちらで報告されてます。

 ところで、これ。必携か……。