青春

 つまり、シリトー(もしくは「怒れる若者たち」)=尾崎というのは、怒っているということだけではなくて、彼らのおかれていた歴史的局面と、その「怒り」の原因が似ていた、ということなのである。

 怒れる若者たちが、戦後イギリスの「豊かな社会」の中、物質的には恵まれながらイデオロギー的、というかほとんどモラルの水準での空洞化に直面し、やり場のない怒りを募らせたとして、尾崎が経験したのは日本の高度成長期であり、物質的繁栄を享受・拒否しながら「俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか」と叫んだのである。

 怒りのやり場のなさ、という意味では、65年生まれの尾崎はポスト68年世代であるいっぽうで、AYMは30年代を神話化し、貧しかったけど集団的怒りのやり場があったあの頃はよかった、というナラティヴを共有するのである。

 そうすると気になるのは、とりあえず日本において、「青春」がいかに構築されてきたか、ということである。直感的には、「青春」はかなり新しい構築物であろう。いずれにせよ、「青春」は非常にポスト産業社会的な現象であることに間違いはない。

 いや、どうなんだろう。今の若者には尾崎豊的「青春」が(想像的ではあれ)存在するのか? なんて自問してしまう私ももうオヤジだなあ。

 (あ、ここまで書いてて、連載中のキーワード集、「青春」があってもいいのか、と思いつく。)

追記:これ、アノミーデュルケームです、と言ってしまえばそれでおしまいなのだが、私もオヤジだなあ、というのは、アノミーというモデルが現在に適用可能なのかどうか、よく分からないからである。たとえば、先日のバウマンが言うような「アンダークラス」に、「アノミー」という言葉が当てはまるのかどうか。いや、これは実態的な意味あいではなく、そもそもアノミーという社会学的概念と、アンダークラスというイデオロギー的カテゴリーは、定義上、別水準に属するものだということだ。つまり、尾崎豊アノミー状態になれている時点で、決定的な社会的排除は受けていないということ。