『おおかみこどもの雨と雪』

 久々に告知以外の記事書きます。ですが、以下完全にネタバレになりますので、ご注意を。

 『おおかみこどもの雨と雪』、信頼できる筋から『サマーウォーズ』をはるかに超えた、と聞いて、いてもたってもいられないくなり見てきました。まったくその通りで、(たぶん年齢層によって評価は分かれるであろうけれども)これは名作であると思います。

 名作というのは現在について、良くも悪くも何かを語っており、また現在に対して何かを語りかけている作品だと思う。

 では『おおかみこども』の現在性は何か。

 ごく単純に、メタファーのレヴェルでこの物語を読み直すと、これは都会で学生結婚して子供をもうけたけれども、生活は苦しく、ついに父親は過労死(子供と妻のために「狩り」に出て死ぬわけで)、残された母子家庭は孤立し、田舎へと移住、そこで田舎のコミュニティに救われる、という話になる。

 もちろんここでは、『サマーウォーズ』にも見られた「田舎」の美化があって、それ自体はどうなんだと思わなくもない。しかし、これを『となりのトトロ』へのコメントとして読むと話はずいぶん違ったものになるかもしれない。『おおかみこども』の中盤、つまり田舎での生活が波に乗って幸福な部分は『トトロ』の全体にほかならないが、『おおかみこども』は都会での「疎外」と、子供たちの「独立」という枠組みをそこに加えているのだから。

 しかしその「独立」がもっとも問題含みの部分であった。特に考えさせれられるのは「雨」の独立。狼となるか、人間として生きるかの選択を迫られた二人の「おおかみこども」のうち、弟の「雨」は、10歳という年齢で独立を選ぶ。つまり、人間の年齢では子供であるが狼としては大人の年齢になったとき、狼として生きることを選ぶ。上記のようなメタファーの水準で読むと、これは労働過程への参入を選択したことを意味する。その水準では、「雨」は過労死した父親と同じ道を選んでいるように見える。

 もちろん表向きの物語はこれを「アイデンティティの選択」という意匠で押し隠そうとする。姉の「雪」が同級生の男の子に自分が「おおかみ」であることをカミングアウトすることで自らのアイデンティティを肯定することが、これを補強している。この、労働の問題を文化の問題にすりかえる手続きが、「おおかみ」とは何かというもっともあからさまな問題への答えを示唆している。

 つまり、「おおかみ」とは、何らか具体的なもののメタファーではない。それは純然たる「疎外」のメタファーでしかない。しかしポイントは、それが表象の上では文化的な疎外(つまり差別)へとずらされたメタファーになっていることである。

 で、「疎外」の対立項は何かと言えば、それは「自然」であろう。ここで、「自然って何だ!」という菅原文太(の声のおじいさん)の台詞が清澄に響くわけだが(引用不正確かも)、この作品では疎外されていることと自然であることが奇妙な関係をなしている。つまり、「雨」中心で見ると、彼が狼を選ぶことは、疎外状態から自然状態を選ぶことであり、文化アイデンティティの上ではそれはその通りではある。しかし、上記のようなメタファーの水準(というか、字義的な水準)では彼は明らかに父親が陥ったような、早期の労働への参入とあり得る貧窮化の道を進んでおり、それは新たな疎外状態の選択なのである。このことは、「雨」がその地帯の「主」であるキツネの跡をつぐ決意によってこれまた想像的に解決されており、ここでは「田舎のコミュニティ」と「自然界・動物界のコミュニティ」の対応が、プロットを解決している(この対応の問題はもちろん『もののけ姫』へのコメントでもある)。しかし、問題はその田舎と都会、自然と疎外との対立が、字義的な水準における矛盾を解決するためのメタファーとなっていることだ。つまり、「雨」は自分が生きる社会を選ぶことで疎外を解消しているように見えるが、問題はその社会の選択というものが純然たるメタファーのレヴェルでしかあり得ないことなのだ。

 じつのところ、このメタフォリカルな対立を解決する人物は「雪」である。人間であることとおおかみであることを同時に肯定するのだから。ゆえに、「雪」は文化的疎外状態を肯定することで物語に調和をもたらす。それに対して「雨」は文化的疎外状態を否定し、「自然」に帰ることによって、字義的な水準においては父親と同じ疎外状態を選択しているのである。

 まとめるならば、この作品における疎外と自然との関係とは、メタファーの水準における自然が字義的な水準においては疎外であるというパラドクスであろう。これは、平等なる自然状態での競争が最大多数の幸福をもたらすというイデオロギーの水準と、その中で過労死するまで働かざるを得ない状況との関係に似ている。

 追記:「疎外」を「無縁」と言い換えればわかりやすいであろうか。「花」の父に関するエピソードは父子家庭をほのめかしており、さらには親戚との疎遠さも示唆している。「花」のシングルマザーとしての孤立にはしっかり伏線が張ってあるのだ。そして、「雪」の、同級生の草平への「カミングアウト」は、草平の母が再婚し、彼が「いらない子供」になったという告白の後に行われる。上記のような「雪」による「疎外状態の肯定」は、そのような「無縁な者たちの共同体」の立ち上げによってのみ可能になっている。その意味で、「雪」もまた母を反復しているように見えるのだ。