時間と記憶と自己意識と忘却

 ちょいとご無沙汰していましたが、「平常営業」が続いたせいで書くこともなく。

 そのような平常営業の中、ひとつ私の心にとりついて離れない憂いが。

 最近、双子との会話の中で、ほんの一年前にいた京都の話がでても、どうやらほぼ忘れ去っているみたい。そりゃ、そうですな。自分の記憶を辿ってみても、2歳や3歳のころのことは何も覚えていない。(人によってはそれくらいからの記憶がある人もいるみたいですが。)

 ということは……。今、私が共有しているつもりのこの時間を、二人は永久に忘却してしまうということ……。極端な話、明日私が交通事故で死んだとすると、二人には「パパの記憶」はなくなるということ。この単純な事実に気づいた日は、一晩中枕を濡らしたものです。まずは死なないようにしよう。もしくは、もしもの時のためにビデオレターでも作っておこう。アホですね。

 今週の大学院ゼミではルカーチの『小説の理論』を続けて。ルカーチ読むなら当然ヘーゲルも、ということで、来週はヘーゲルもざっくりと勉強しましょうということになった。そこで引っぱり出したのはこれ。

 これ、スーザン・バック=モースの「ヘーゲルとハイチ」を目当てに入手していて、それしか読んでなかったのだが(ちなみにその論文は増補されて、今年本になりました)、非常に充実した特集で、今回はヴェルナー・ハーマッハーの「(仮面をつけた芸術の終わり)」を読んでみる。あいかわらずすべてを飲み込めた気はしないが、喜劇におけるイロニーを自己意識=芸術の最終段階とみなすというヘーゲル読解を、悲劇において(そしてさらには芸術の最初の言語たる叙事詩においてさえ)言語行為が抱かざるを得ないある過剰を手がかりに塗り替えようとする試み。その「過剰」とは何か、という点については、私の言葉で言い換えれば「言語行為は再帰的reflexiveにはなり得ない」というところだろうか。ハーマッハーの言葉では、

いかなる行為も、したがっていかなる言語的行為も、いかなる行為遂行的(パフォーマティヴ)な発語行為も、その行為自身の外に設定された目標に向けられている限り、縮減不可能な〈意識されえぬもの〉に突き当たらざるをえない。そのような目標において、その行為は、その行為自身にとって外的なもの、近づきえぬもの、遂行しえぬものである。その行為が志向的行為であるまさにその限りで、その志向の目標点も、したがってその目標点に向かう行為として規定される当の行為そのものも、その行為から逃れ去るほかはないし、かくして、その行為に結びついた志向的意識は原理的に制限され、自らを捉えることなどできぬままであるほかはない。(257頁)

ということ。これは、『他自律』の読者にとってならおなじみのロジックだろう。自律的な主体が、「自律的たれ」という、他者からやってくる最初の命法=言語行為に従って生じたのだとすれば、それは「自律的」たりえていない。したがって、「自律的たれ」という最初の言語行為は「成立する前の自己」からやってくるものだと想定せねばならない。これは不可能でありつつ、なおかつ「ある」と想定せざるを得ない、ひとつの「過剰」であり、それをハーマッハーは「他自律」と名付けるし、そのような言語行為以前の言語行為を「アフォーマティヴ」と名付ける。

 上記の、「言語行為はreflexiveになり得ない」というのは、だから、事態の半分しか述べていない。みずからが主語/主体となりつつ、同時に目的語/客体となるような再帰性──つまり能動かつ受動──は、こと言語行為に関して論理的には不可能なはずである。言語行為が「創設行為」であるならば、「創設されるものが(創設されるものを)創設する」ことになってしまうから。しかし、それが「ある」と想定されないかぎり、存在を説明することはできないということだ。

 予想通り、ハーマッハーは「演技という出来事は、自我論的(エゴローギッシュ)に規定される主体、つまり自己同一的な主体、自律的に『自ら』を思うままにする主体に先立っている」(264頁)とし、この主体に先立つ演技を仮面・ペルソナという概念に結びつけた上で、それに「アフォーマティヴ」の名を付ける(同頁)。

 それで、「自己意識」と「芸術の終わり」についてだが、正直ちょっと後半の議論をフォローできたか自信なし。おそらく、ヘーゲルが「芸術の終わり」を見た「喜劇=イロニー=自己意識の最終形態」は、上記のような演技の、つまり肝心の「自己」を忘却したペルソナの戯れとして理解でき(つまり、それは「永続的アフォーマティヴ(の忘却)」であり)、その意味で「芸術の終わり」は永久に宙吊り=先延ばしにされた「終わり」である、というような論旨だと思う。