老人問題

 『崖の上のポニョ』の「舞台」となった鞆の浦の「景観保護」を支持する判決が出て、ああ、どうにも公共事業の差し止めとエコロジーを打ち出す民主党路線だなあ、と思いつつ、今日の子供の寝かしつけ絵本読みは『崖の上のポニョ』だったりして、それを読んでいてふと気になったことが。

 宮崎駿作品におけるペドフィリアという問題は斎藤環なんかが言っていたが、宮崎駿における「老人」問題は誰も論じていないのではないか、と。

 前期作品において、老人は前近代的な共同体における、賢人としての老人である。『ナウシカ』しかり、『ラピュタ』の炭鉱のじいさんとか、『カリオストロ』の庭師のじいさんとか……。『となりのトトロ』におけるトトロもその意味では老人なのです。いずれも、物語の時間(=「いまここ」の共同体の時間)を超越して生き延びている人間としての超越性をもっている。もしくは「自然(存在)」と「人間(存在者)」のあいだの媒介のポジションにいる。

 ところが、最近の作品では「老人」の位置づけが劇的に変化している。典型的には『千と千尋』の湯婆婆であるし、『ハウル』の美輪明宏だし、今日わたしが気になった、『ポニョ』の「ひまわりの家」に収容されたおばあちゃんたちがそう。以前の「自然」=「超越的なもの」の媒介者としての役割は消え去って、非常に世俗化された、というか、子供化した老人の姿なのである。その皺は、叡知の刻みこまれた年輪ではなく、醜い肉の襞と化している。こういってはなんだが、正しく老人化した現実の老人に対峙しているような感覚にさせられる(デフォルメはされてるけど)。

 これはなんなんだろう。ひとつの説明としては、単に超越的なものをベタに提示することができなくなった、ということかもしれない。また、上記のような観点からすると、主人公が老婆になってしまう『ハウル』は重要な転回点なのかもしれない。また、「中年」を主題とした希有な『紅の豚』も重要かもしれない(『カリオストロ』も中年物語でしょうけどね)。

 いや、結論はないんですが、宮崎作品はこのような、存在と存在者とのあいだの媒介をめぐる紆余曲折と読むことも可能なのに、それが結局「エコ(自然と人間)」に回収されるのかなあ、という感じで嘆息してみたりしているわけ。