人類学・メディア・共同体

 古典学者・人類学者のジェイン・ハリスンの、ジョイス、エリオット、ウルフへの影響を論じた書物。そのまんま。人類学言説のマッピングとしては有益だったが、正直「読解」という側面でがっかり。特に最終章の『灯台へ』論はいただけない。

 ウルフとハリスンに関する研究はすでに多くあって、そのほとんどが(というか、全部)フェミニズム批評。ハリスンは神話に含まれる家父長制に対抗して、テミスを始祖とする母権神話を称揚し、そして参加的な儀式を、神話と「疎外」された芸術をつなぐかけ橋とした(この辺はもちろんニーチェ)。これと、ウルフにおける「セミティークなもの」とを重ねて一丁上がり。(正確にはテミスはゼウスとガイアの両者を超越するものであって、性の分化以前という意味でまさにセミティーク。)

 Carpentierの『灯台へ』論はそこから一歩も出ない。ラムゼイ氏=ゼウス的な家父長=父の名、ラムゼイ夫人=テミス的なもの=セミティークという図式。

 この図式自体はもう退屈そのものであって、むしろハリスンを問題にするなら、上記の「芸術の疎外論」がウルフを初めとするモダニストになぜかくも魅力を持ったのかを考えるべきだろう。どのような時代の危機に対する反応だったのかを歴史化したいところ。それを考える上でおそらく、「メディアと主体」という問題系は避けられないと直感している。もちろん、20世紀初頭にしていまさらハリスンの言うような、踊り手と鑑賞者が一致するような共同体儀式はあり得ないのであって、ウルフ(に加えてその他のモダニスト)の作品がかくも「芸術家/芸術と、その受け手」の形象に充ち満ちているかと考えれば、それは共同体=主体を立ち上げるメディアに関するリフレクションだったのだ。それを個人主義/コレクティヴィズムといった図式で考えては失われるものが大きい(個人主義的な主体も畢竟メディアを媒介として集団的に生成されるものなのだから)。どのような形であれ、共同体とそれを媒介=生成するメディアが「問題」となっている時代に、ハリスン的な人類学が魅力を持ったのは当然と言えば当然なのである。……といった話はこの本には書いてありません。