あの頃に若かった

 学会の業務メールなどで「みなさん○試でお忙しいと存じますが……」とかいう時候のあいさつが飛び交う昨今ですが、いかがお過ごしでしょうか。

 この時候の挨拶が私にはピンと来ないのは、すでに主要な○試は終わったからで、早く終わるのはなぜか、というのは、大学の○試の順番がどのような力学で決まっているのか考えてみれば自明であり、すでにほっと一息春休み気分になっているのは、喜ぶべきことでもないわけです。

 そんな中、月末の研究会に向けて、これまで読まねばと思っていたのに怠慢で読んでこなかったケインズの本を机に積み上げてみる。とりあえず手にとってみたのはこれ。

貨幣改革論 若き日の信条 (中公クラシックス)

貨幣改革論 若き日の信条 (中公クラシックス)

 「若き日の信条」は、デイヴィッド・ガーネットの導きで会ったD. H. ロレンスに、「あいつらアホや」と言われたことを後に知ったケインズが、「確かにアホやったかもしれんねえ」と韜晦した文章だが、G. E. ムーアのもとに集まった当時のケンブリッジの若者たちの形而上学ぶりというのは、若さゆえということ以上に時代を感じる。

 非常にナイーヴな話になるが、「精神と世界との対応」に対する根本的な信というものが、この時代にはまだあったのだなあ、という感想。現代のわれわれは、「精神と世界との対応」という観念を根本的に失っている。G. E. ムーアの有名な、「命題と机との区別がつかなくなる」というのは、現代人からするとちょっと噴き出しそうになるものの、当時の感情の構造においてこの陳述が「大まじめ」でありえたことは、間接的ながらに感受できる。逆に言うと間接的にしか感受できない。この喪失が批評言語に与えるインパクトは根源的なものであろう。文学作品なり批評作品と、世界との呪術的な(と言ってしまうが)対応関係が徹底的に無効になったときにそもそも批評は可能なのか。そのような苦境から歴史主義やたんなる文学への耽溺に逃避することは簡単であるが。

 ひるがえって私たちが戦間期の書物を読む際に、モダニズム文学であれフロイトであれ、そこには私たちが根本的に喪失した「精神と世界との呪術的対応関係」への信が存在することを忘れがちである、というより、もう定義上それを共有することはできないのではないかという恐ろしい疑念を抱いた次第である。