今学期はレポート科目が多くて地獄の採点で8月の最初の一週間が飛び、ダメージ回復している間にもう8月も後半……。観てそのままになっている映画が溜まってます。
まずは『インサイド・ヘッド2』。ピクサー/ディズニーの久々?のヒット作ということで期待して観ましたが、確かにこれは隙のない出来。
これは『インサイド・ヘッド』にも通ずる話ですが、この作品のそもそものポイントは、本来はつかみ所のない、自分という曖昧模糊とした存在の中のさらに曖昧模糊とししていて、混沌のうちにまざりあった「感情」というものを擬人化の手法によって劇化することです。Inside Outという原題はそれを表現している。本来は分節化されていない内面(inside)をキャラクターという形で表出させる(out)。
これって、文学の基本的な役割であるとともに、その役割の半面でしかないわけです。ここで言っている文学の役割というのは、分節化されていない現実に言葉を与える(分節化する)ということですが、もう一面の重要な役割は、言葉を与えられてしまったものをもう一度壊していくという役割です。フレドリック・ジェイムソン(『政治的無意識』)で言えば、包摂の戦略と美学化の戦略ですね。
これを人間の心理というものに当てはめていくと、とたんにきな臭いことになってきます。というかそもそも、映画自体が自我心理学そのものなんですよね。今回もsense of selfだとかstream of consciousnessといった概念をどんどん視覚化していく。視覚化するというのは、言語化よりも強度があって、「表象の危険性」を孕むんだな、と改めて感じます。
前作に引きつづきこのシリーズを観ていてハラハラしてしまうのは、結局ライリーはある完成された「自己」を手に入れて終わるんだろうな、という点。そして、完成された自己を手に入れるためには不完全な自分も自分として受け容れる的なプロットがどうせ用意されているんだろうな、という予想はまず裏切られない点。
そういう部分と、「失敗してはならない」というある種のネオリベ的なメリトクラシーの感情構造が、かなりの親和性を持って手を結んでしまっている作品じゃないのかという疑念は、どうも拭えないでいるわけです。I'm not good enoughというanxietyを乗り越える物語。
だとすれば重要になるのは、上記の「文学の基本的な役割」の後半の部分でしょう。ライリーの自己の形成の物語において、失敗したもの、抑圧されたもの、排除されたものの地位は?ということです。文学の一つ目の役割に自我心理学が対応するなら、この二つ目には精神分析が対応すると言ってもいいでしょう。これについては、ポストクレジットのアレでちゃんと目くばせされたといえばそうなのですが。
ただ、最近翻訳の出たジャック・ハルバースタムの『失敗のクィアアート』が「ピクサーボルト」と名づけたようなものをこの作品が体現しているかと言えば、むしろその正反対であるような感覚がぬぐえないところです。