訳読について考えてみた

 本日は英文法の授業、大学院生指導、編集者と翻訳打ち合わせ。

 英文法は本来英語学の先生がやるべき類のものだが、今年度は買って出た。私、「英文法」というやつが結構好きでして。いや、ごく古ーい英文法ですけど。古い古いとバカにできたものでもなく、高校まで教えられている英文法は、先人の蓄積もあって大変うまく出来ている。第二言語として英語を読み書きするためには大変秀逸な道具。

 ところで、現在の大学英語では「訳読」が忌避されている。まあ、大学一年生を捕まえてシェイクスピア読ませるような、英文学者による英語教育に対する反動というのはよく分かる(いや、今はそんな人いませんよ。念のため)。

 しかし、どうも風呂のお湯と一緒に赤子も流してしまっているような気がしてならない。

 「訳読」は外国語教授法としてはギリシャ語やラテン語の古典語の教授法である。これを現在世界で覇権を握り、使用されている英語に全面的に使うことがばかげていることくらいは分かっている。かといって、それを全面的に手放すべきなのか。

 リーディングでは「トップダウン・リーディング」と「ボトムアップ・リーディング」という方法概念がある。全体的なコンテクストや構成から文章を理解するのがトップダウンなら、単語や文法レベルで「精読」をし、部分から全体に至るのがボトムアップ。訳読の忌避は、トップダウン・リーディングの推奨に等しいのだが、それはもちろん、高校までで基本的な知識は身につけているという前提での方法である。しかるに、現在の一般的な大学生にトップダウン・リーディングのみを行わせようとするのは、例えば今の私にロシア語のテクストを与え、「品詞や統語法なんて細部はどうでもいいから、まずは全体の意味を捉えなさい」と言うに等しい。

 いや、そうは言っても高校までである程度のことは勉強しているのだから、簡単な英語をシャワーのように浴びせればよい、という反論はあるだろう。その通り。ただし、大学の英語の授業という限られた時間のなかでそれができるなら。

 退屈な結論を述べておくと(真理は常に退屈なものである)、訳読に代表されるボトムアップ型と、平易な英語をトップダウン的にできるだけ沢山読む、この二つをバランス良く配置するべきだ。