他自律と未来性と複眼視と

 土曜は東京で翻訳打ち合わせ。日曜に帰ってそのまま「活動」へ。今日は卒論の締切。先週のうちに出しておけと口をすっぱくしていたのに、今日出したゼミ生が半分くらいいて、授業と会議の間はイライラと研究室で待機。結局締切時間の10分前にようやく全員が提出。

 土日のハードスケジュールもたたってちょっと風邪が悪化。今日はゆっくり寝て仕事は明日にしよう。

他自律―多文化主義批判のために (暴力論叢書 2)

他自律―多文化主義批判のために (暴力論叢書 2)

 東京への行きの新幹線読書。

 これは……。先日のA Time for the Humanities: Futurity and the Limits of Autonomyと偶然の(必然の?)一致。タイトルになっている「他自律」と、「未来性」という時間性の問題。完全に交差している。

 ハーマッハーの言う「他自律」とは、「自律性は存在せず、他律性しかない」ということではなく、「自律性とはすなわち他律性だ」ということである。もしくは「他律性は自律性の構成要件である」とも言えよう。このこと自体は、精神分析などを通過すればそれほど分かりにくい話ではないが、本書の白眉は後半でそれを一気に代表制・代議制の問題と、他者に対する倫理の問題へと展開する部分だろうか。ちょっと引用しておく。

民主主義の自己決定とは、別の自己および他者の可能性のために〈声を発する=票を投じる〔stimmen〕〉、ということである。またそうであるなら、自己決定とは、定義されない無限な自己のために〈声を発する=票を投じる〉ということである。このような自己は、決して与えられていない他者、決して数えられることのできない他者の謂なのだ。そうしてそうなると、多文化主義的な民主主義とは、ただ単に多くの文化に対して開かれた民主主義というだけでなく、いかなる既知の文化概念やいかなる既存の文化モデルにも同化され得ないものに対してさえ開かれているような民主主義ということになる。このような民主主義だけが、無条件な文化のための無条件な民主主義であるだろう。(113-4頁)

 「他自律」の「他」には、ここに述べられるような絶対的他者が含まれ、その他者の絶対性は「未来性」という時間性によって表されるものである。(ハーマッハー自身がこの引用のすぐ後で使っている表現では、「無規定なものへの投擲〔Wurf〕」である。)民主主義の原理をラディカルに貫徹するなら、〈声を発する=票を投じる〉行為は投票権をもたないものたちを代理=代表する行為であるとともに、つねに未来性においてそういった他者の「ために」なされる行為であるはずだ。さらに言えば、〈声を発する=票を投じる〉行為そのものがそのような未来性を生産する行為だということにもなろう。未来性については、訳者解説で触れられているハーマッハーのベンヤミン論での「遅延としての時間」という概念が重要であろうか。解説の言葉を借りればこの時間は「未来へと進む」のではなく「未来からやって来る」時間であり、それは反定立的であらゆる表象(=代理・代表)を逃れ去っていく時間である。上の引用の後にはこのようにそれが表現されている。

自律の主体は、カントが理解しているように、自律化しつつある主体でしかあり得ない。したがってそれは、自らの自律より前にある主体であり、自らの法則をすでに与えてしまっているのではなく、これから初めて与える主体、主体より前にある主体である。とすれば、それは、主体〔Subject:下に投げ出されたもの〕ではなく、投企〔Projekt:前に投げ出されたもの〕である。そしてそれには、この主体の投企を方向づける構成された《前》が欠けているのだから、投企〔Entwurf〕でさえなく、無規定なものへの投擲〔Wurf〕であり、ただ他者たちによってのみ、ひたすら他者たちによってのみ規定可能なものへの投擲である。(115頁)

 エンプソンについての私の議論にも、この「無規定なものへの投擲=遅延としての時間=未来性」を導入することが可能だ。レトリックの時間性というのはまさに、このような「未来性」である。エンプソンが強調する「レトリックの曖昧」のboth/and(つまり、あるレトリックの二通りの解釈を、「どちらか」に固定するのではなく、単純に「両方」に解釈できるということ)を、前回の発表では「出来事性」だとか「パフォーマティヴ」という言葉で説明しようとしたが、むしろこの「未来性」で説明した方が適切ではなかろうか。レトリックの「意味」は、意図やことばに内在していないのは当然として、ではどこにあるのかといえば、それは「未来からやって来る」のだ。私は「レトリックが開く経験の地平」という表現を使ったが、これはこの「遅延としての時間」を開くレトリックの脱構築力と言いかえられよう。さらに言いかえると、レトリックのアクションとは「無規定なものへの投擲」なのである。ひるがえって、私が「経験の地平」と等号で結んだリアル(ラカン)も幼年期(アガンベン)も、未来性という観点から解釈しかえすことが可能になるように思う。ということは同時に、「複眼視」についてもそうだろう。「二重視」がメタとベタ、自律と他律を単に「足し算」したものであるなら、「複眼視」は、現在の自己が未来からやって来る他者によって「他自律」的に自己決定をなしているということの悟りにほかならないのではないか……あ、そういえば夏頃夢中にやっていた「前衛」についても、この「未来性」という時間が重要だな……と、最初に「今日はゆっくり寝て」などと書いたのに、思考が止まらないのでこれくらいに。