書き始める前のメモ

 連休を前後して、個人的に怒濤のような日々で、ブログ更新もままならず。土曜の小シンポの本格的準備を、今日になってようやく始める。(というか、これから始める。)

 3月のペーパーを今回向けに整えつつ、足りなかった論点を少し足すという程度になる模様。

 ひとつは「複眼視」の論点。3月にはさっと通り過ぎてしまった論点だが、この辺を参照しつつしっかり論じようと思ったら、これは大変。

エッセ・クリティック (晶文全書)

エッセ・クリティック (晶文全書)

 から、「盲目の肝っ玉おっかあ」。そして、

批評の政治学―マルクス主義とポストモダン (テオリア叢書)

批評の政治学―マルクス主義とポストモダン (テオリア叢書)

 から、「ブレヒトとレトリック」。

 バルトのは小文なのであまり深いことは言えないのかもしれないが、戦争という状況に埋めこまれていることに「盲目」である肝っ玉おっ母の姿を「見る」ことが可能な観客、というのは、教科書的なブレヒトの「異化効果」の説明としてはOKなのだろうが、それでいいのだろうか。そこに、観客(=批評家)が肝っ玉おっ母と共有する死角の問題は出てこないのかしら、と。

 イーグルトンについては、同じ本に入っている「道化としての批評家」とセットにして読むべきであろうか。ブレヒトの異化効果とは、本来演劇的に獲得された人間の言語とジェスチャーの人工性を、「パフォーマンスのパフォーマンス(のパフォーマンス)」によって前景化させるということであり、イーグルトンの用語法ではそれは「ロジック化によって覆い隠されたレトリックへの遡行」とでも言えるのだが、もちろんここでロジック/レトリックの二項対立が大問題。しかし、The Volunteersは、コンヴェンション=ロジックからプロセス=レトリックへ、という運動を見せているのであり、ちょっと真剣に考える必要あり。

 あとは、「仮定法」の問題をめぐって、

パフォーマンス研究―演劇と文化人類学の出会うところ

パフォーマンス研究―演劇と文化人類学の出会うところ

 バルト的「複眼視」にもいえることだが、ここで論じられる「仮定法」はプロセスからの「身の引き離し」の問題となっている。その手段としての「パフォーマンスの(起源なき)再演」ということだが、これはプロセスへの沈潜が鍵であるウィリアムズの「真の仮定法」とは正反対の話になっている。だがこの辺で小説と演劇というジャンルの差異が決定的に重要になってきてしまうのかなあ、と直感。

 以上、メモ。原稿書きます。