リハビリ中

 昨日は研究会。以前告知していた、鈴木英明さんによる講演会「アイロニーからゼネストへ」。

 個人的には引っ越しで完全に開店休業状態になっていた脳みそのリハビリというつもりであったが、リハビリにしては刺激が強すぎ、興奮してしまってトンデモぎりぎりの質問を繰り出してしまい、それでも誠実に答えてくださった鈴木さんに感謝。

 ロマン主義モダニズムをやっている人にとっては自明のはずであるが、アイロニーというのはそのままモダニティの問題なのである。今回よく分かったのが、ド・マンはアイロニーを単なる修辞学や単なる美学、またそれとは逆に弁証法歴史観「のみ」に還元することをこばみ、アイロニーをそのもっとも広い意味、つまり上記の意味すべてを、そしてそれ以上を含みこんだ、モダニティそのものとしか名づけようのない問題として思考しようとしたということ。ここに見られる、「ことばが歴史的にこうむっている分断や制限を学び捨てる」という方向性には、実のところ、レイモンド・ウィリアムズとも通底するものを感じるのであった。

 ひるがえってベンヤミンについては、「暴力」と訳されてしまうGewaltには、暴力だけではなく「権力」「力」という意味もあることがまずは重要で、暴力批判論というのは殴るとか殺すとかの暴力の話ではなく、権力の批判なのである。神話的暴力と神的暴力とはそれぞれ同時に神話的力/権力と神的力/権力とも読まれるべきなのだ。しかし、そこからたとえばネグリにおけるような構成された権力/構成的権力や、グローバル権力/マルチチュードの権力といったものが想定されることはなく、ベンヤミンにおける神的暴力は(ここがもっとも困難な点だが)「見えない」のである。

 もうひとつの困難は、ベンヤミンにとってはメタファー以上のものであったはずのゼネストが、現代のわたしたちにとってメタファーでしかありえないことかもしれない。ここで、鈴木さんが最後に提起した、ポストフォーディズムに亀裂を穿つような、ド・マン的行為遂行的レトリック、ベンヤミンゼネストの可能性について、わたしはその困難さのみを読み込んでしまって、後でたしなめられた。たしかに、忍耐の足りない反応であった。しかしこれは、経験的には仕方がないことかもしれない。言語的パフォーマンスや余暇がすべて生産過程へと繰り込まれてしまったのがポストフォーディズムだとするならば、その「休止」を想像することはこのうえなく困難だから。しかしいっぽうで、その困難さを認めたところから批評は始まるべきであろうとも思う。

 ひとつ、神的暴力、もしくは純粋暴力の「見えなさ」について、ブレヒトの「のちに生まれる者へ」が想起された。この詩はまさに、現在行われているどうしようもない暴力(権力/力の行使)が、のちに生まれる者たちにとっての神的暴力/力となることへの「祈り」のような詩である。それを考えると、上記のゼネストが現代のわたしたちにとってメタファーでしかありえない、というのは間違いで、ゼネストの「後に生まれた者たち」が負っている批評的アクションの有りようについて思考することを、ベンヤミンは促しているととらえるべきなのだろう。

 ……なんだかまだギアがかみ合ってない感じで、たしかな刺激を受けているのに思考がなめらかに走り出さない。ちょっともどかしいが家から段ボールを放逐するまでは仕方がないだろう。今回は久々に「終電」の待ちかまえる飲み会で、芯から疲労している感じはあいかわらずであったので長めの一次会が終わって早々に退散。すんません。