原因としての偶然

 いやだよう。がっこうにいきたくないよう。

 というわけで、来週の準備をしつつ、年を越した大掃除を少しずつしつつ(やはり掃除は苦手。研究室に来る学生はなぜか「きれい」だと言うのだが。ということは他の先生の研究室はよっぽど)、論文を書きつつ、翻訳をする。どれも中途半端で何もせずに一日が終わる気分。

 2008年最初の書籍購入。というか、ずっと前に注文していたのがようやく届く。

Joseph Conrad and the Fiction of Autobiography

Joseph Conrad and the Fiction of Autobiography

 今年中に読めればうれしい。

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題

 これも少しずつ読んでいるが、やはり「根本問題」(は、「最初の問題」でもあるのが常だが)をじっくり論じようという姿勢には好感を持つ。

 後半戦では、分量的に多い第三部の身体論よりも、第二部の「偶然」論と、最終章のアルチュセール論がうれしかった。大学院生のころ、コンラッドを「偶然性」を軸に論じようとしてあまりうまく行かなかった記憶が蘇る。

 偶然性と原因、決定の問題(さらには反復の問題)。精神分析がもっとも豊かな洞察を与えてくれる領域だろう。出来事が(症状の)「原因」の地位を得るのはなぜか。必然的決定でもなければ、純粋に偶発的な反復でもない、その決定不能な「あわい」をアリストテレスの「テュケー」の概念を軸に論じる。第四章でフロイト、第五章でラカン、第九章でアルチュセールと来て、絶対来るだろうと思っていたスピノザではなくアリストテレス。うーん。