- 作者: 井上雄彦,吉川英治
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/07/23
- メディア: コミック
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いよいよ一乗寺下り松の戦い、とおもいきや、なんだか私の知っているもの(原作)とずいぶん違うなあ。それを言ったら他の部分も原作とは大違いというか、どういう翻案を提示しているかが読みどころなのだが。
そう考えると、昨日の徳永英明といい、「リサイクル」が大流行なわけだ。
ひとつの見方としては「ポストモダン的ノスタルジア」ということになろう。(超売れっ子漫画家である浦沢直樹が『20世紀少年』や『PLUTO』といった作品を書くのはその典型。ちなみに『21世紀少年』が出ているみたいだが、読まないことをここに宣言します。)また、それを裏返して、このような翻案は本歌取り以来の日本の伝統である、などと言い出す向きもあろう。だが、同じリソース(物語)をさまざまなメディアで利用しつくそうとする資本主義的運動、というつまらない答えがファイナルアンサーではないかとも思ったり。
全然関係ないが、漫画とメディアということで言うと『DEATH NOTE』はメディアにまつわる漫画であった。あれは、現代のメディア世界でいかに匿名性を保つかということをプロットの軸としつつ(例えばブログを書きながら匿名性を保つ、というような状況と似ている)、その核にある「デスノート」が、ノートに鉛筆(またはペン)という、旧来的メディアであるところがミソなわけだ。ここには、「身体性・固有性のあるメディア対匿名的メディアの対決」という構図がある。すなわち、主人公の「戦い」は匿名性に向けた戦いであると同時に匿名性に「対する」戦いでもあるのだ(まあ、自分の名前を隠しつつ相手の名前を知る戦いなのだから、当たり前だが)。ただ、その「メディア」がせいぜいテレビ止まり(ネットも携帯もそれほど大きな役割を果たさない)というのが、実のところ古くさかったりもするが。
戻って『バガボンド』だが、この作品にはポストモダン的ノスタルジアを通り越して、身体性への回帰という要素もある。問題となるのは身体をどう表象するかということではなく「身体の統御をどう表象するか」ということ。『バガボンド』を内田樹と甲野善紀が肯定的に話題にしていたことは、武道にまつわる漫画だからという以上の理由があると思われる。というのも「身体の統御をどう表象するか」という関心は、いっぽうで脳科学ばやりという形にも表れており、ある程度共有された時代の関心であると思われるからだ。これが『DEATH NOTE』のメディアの身体性の問題とからむのかどうか。
これって大まかには生政治の問題であり、「自己のケア」の21世紀版の問題なのだろうが、より具体的にどのような歴史性をもっているのか、考えねばなるまい。(考えますよ、という宣言ではありません。)