風景萌えと「現在へのノスタルジア」

 この冬三度目の流行性胃腸炎をやったと思ったら、つづけて謎の病気。熱はないのに悪寒がして、ひたすらに眠くなり、鼻はひどい炎症、というもの。まる二日くらい棒に振りました。

 ところで、フレドリック・ジェイムソンは下の本もくわえた各所で「現在へのノスタルジア」ということを言っているが、この概念というか感情の構造を、まるっとわかりやすく説明する方法や事例はないかなあ、とずっと思っていた。

 で、上記の症状に悩まされながら、テレビで『ブラタモリ』をなんとなく見ていて、「ああ、これじゃん」と思いいたる。その回は、六本木界隈を歩いて、「この辺は江戸時代は毛利家の屋敷だった」とか、「戦時中は陸軍だった」とか、「ここは窪地だったのが埋め立てられた」とか、過去の痕跡を探し求める。風景に歴史のパリンプセストを見るという、30年代以降にイギリスではやった「フィールド・オブザヴェーション」を彷彿とさせるもの。

 これは単なるノスタルジアなのかと思って見ていると、番組が進むにつれて、これはどうも違うのではないかという感じが体の中に沸き起こってくる。その感覚というのは、風景に折り重ねられた歴史を執拗に確認していくことによって、現在の風景でさえも歴史的なものに見えてくる、という感覚である。現在の風景に過去の歴史の重みを見る、ということではない。現在の風景の表層が、なにか「どこかで見たなつかしい」ものになるということ。そこで働いているメカニズムは、「現在を過ぎ去った過去として見る」という視点が獲得されることによって起動している。(ジェイムソンの場合はディックの近未来小説について「現在へのノスタルジア」を言うので、その場合は現在は文字通り「過去」になっているのだが。)つまりここでは、現在の「東京の風景」がすでにヘリテージ化されている。

 現在の東京の、もしくは都市風景のヘリテージ化というと想起されるのは、『エヴァンゲリオン』や、新海誠の作品である。いずれにおいても、電線、電柱、歩道橋、線路、駅舎、踏切、信号、横断歩道などなど、非常に日常的な風景が、いわく言い難いフェティシズム(というか「萌え」?)をもって描かれる。とくに後者(新海)は(私は彼の作品は本当に無内容だと思うのだが)、ほとんどそういった風景へのフェティシズムでのみ作品が構成されている。たとえばこんな感じ(伝わるかしら?)。

 ……とまあ、これで「わかりやすく」説明できているのか、全然分からないし、「だから何だ」というのをもう少し考えないといけない(だって、これって基本的には保守的な感情の構造だし、上記の例が与える美学的な安心感は、ディックとはかなり異質なのだ)。ジェイムソンにおける「現在へのノスタルジア」と同様、これは、現代における歴史的想像力のあり方について何かを物語っているのは確かだが……。とりあえず、気づいたことなのでメモしときます。

Archaeologies of the Future: The Desire Called Utopia and Other Science Fictions

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