これは私ではない

 世間では大型連休などというが、私は単なる飛び石連休。なんでこうなるのだろう? 理由は分かっているのだが。

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 ゼミで見せるのに適当かどうかのチェックも兼ねて再見。まあ、暴力とセックスが多いのはしようがないが、許容範囲でしょう。時代設定とエンディングの想像的解消の問題をどう考えさせるか。

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 パソコンの、4回許されたリージョン変更の1回(正確には「2往復」が許されているうちの1回)を使ってしまったが、それに値する出来でした。

 自らを語ることに、また他者に表象されることに抵抗しつづけるデリダと、撮影クルーとの緊張関係を軸に展開。そういう部分に焦点を当てるドキュメンタリーがそれほどめずらしいわけではないが、相手が、前半でも引用される『他者の耳』を著したデリダとなると事情は違う。デリダには自らをテクスト的存在として演出し続けるという選択肢もあったはずだが、そうはしなかった。それを、「アメリカ市場=グローバル市場への売り込み」などに還元しても生産的ではない。ドキュメンタリーによって表象される際にこうむるかもしれない暴力を重々承知しつつ、あえてそこに飛び込んでその危険性との交渉を行う。それは、彼にとって哲学的営為の一部として行われたのではないか。作品中のインタヴューで、デリダは「言行不一致」をおかしつづける。つまり、「そのような質問には答えられない」と質問をはねつけつつ、それでもそこから何らかの言葉を紡ぎ出す。「答えません」と言いつつ、その言語行為のレベルでは「応答」しつづけるのだ。この言行不一致は、ドキュメンタリーに出ながらもその中で自分の「人となり」を語ることを執拗に拒否することに、共通している。この言行不一致こそがデリダの思想の鍵に違いない。

 もっと素朴な感想。デリダは、質問されるとしばらく考えてから答える。考えたわりにはシステマティックな答えが用意されているわけではない。世の中には、「口で考える」人もいるが、デリダはそうではなく、思考の糸口を沈黙のうちに探り、そこから不器用に言葉を紡いでいく感じ。その「考え中ショット」のうちでも印象的だったのが、「どの哲学者を母にしたかったですか」という、ちょっとねじれた質問に対して、親指の爪をかじりながら、赤ちゃん状態になって考える姿。著作やこの映画からも、デリダがマザコンであったことは確実だが、それが非常に身体的に表れていて、面白かった。

 音楽は坂本龍一

 あ、リージョンフリーのプレイヤーを買おう。結構安く出回っているではないか。