ウェールズ顛末

 というわけでウェールズへ。2日に行われたコンファレンスThe Long Revolutions in Wales and Japanに参加してきた。3年前に感じたあの驚きは健在。つまり、遠く離れたスウォンジーの地で「話が通じる」というか、「経験が響き合う」というか。もちろん様々に重要な差異はあるのだけれど、この特別なコネクションがここまで続いてきているのにはそういう部分が大きいと思う。

 大まかに順を追って。空港ではベタなお出迎え。

 到着日はロンドン泊。翌日はスウォンジーに向かう前にセント・パンクラス駅でベッチマンさんに会って、

さらには再開発中のサマーズ・タウンの実際の様子を視察。

 確かに、再開発中でした。この地域の再開発については『愛と戦いのイギリス文化史―1951‐2010年』を参照。The Francis Crick Instituteの複合施設を建設中。この辺、早速来週の授業で使えるぞ。

 スウォンジーに移動。スウォンジー大学で打ち合わせをしつつ、完成したレイモンド・ウィリアムズのアーカイヴを見る。私たちの関心のありそうな資料を厳選して用意してくれていて、感謝感謝。思わずいろいろと転写してきた。

 翌日はディラン・トマス・センターにてコンファレンス。

 コンファレンスの内容は重厚長大(インダストリアル!)でちょっとまとめきれないが、id:melanie-ji-woo氏とid:takashimura氏の報告も参照してもらいつつ、私にとってのキーワードは「短い革命に対抗するものとしての長い革命」であった。(ディスカッションでは英語の問題もあり、この点をきちんと説明できなかったことが悔やまれる。)つまり、ウィリアムズの『長い革命』を、また「長い革命」というアイデアを現代において有益に読むためには、ウィリアムズが「短い革命」に対抗するという意味で私たちと同じ歴史性を共有していたということが重要だと思う。ウィリアムズが直面した「短い革命」とは、ロシア革命全体主義ではなく、戦後イギリスの社会に巣くっていたそれだと私は考えている。つまり40年代以降の福祉資本主義の進展によって進んだ労働者階級の「取り込み」の過程である。「豊かな社会」においてトリクルダウン的に労働者階級が富と福祉を与えられ、その「文化」を失っていったその過程だ。もちろんそれには肯定的な側面もある(「メリトクラシー」という語が二重性を持っているのとまったく同じように)。しかし、「取り込み」の過程によって、社会全体をラディカルかつ民主主義的に変容させていくユートピア的ヴィジョンは失われていった。ウィリアムズの「長い革命」は時に言われるような漸進主義などではまったくなく、ラディカルなユートピア主義だったと思う。

 しかし、現在の状況(新自由主義?)を生み出したのもまたユートピア的衝動である。ウィリアムズは『長い革命』の続編である『2000年に向けて』でその新自由主義を検討した。私たちにとっての「短い革命」は新自由主義にほかならず……と、ほとんど博論の話になってきたのでこれくらいで。(今年度中には出版するので読んでください。)

 とまあ、以上は私の話で、コンファレンスはフロイトとウィリアムズ、ウィリアムズの『第二世代』論、ジョン・オーモンドのBBCでの活動、震災後の日本の状況と「長い革命」、そして森崎和江とウィリアムズと、非常に濃密で多岐にわたるものとなり、質疑応答もとぎれることなく盛り上がった。すばらしい経験の共有をもうひとつ積み上げたといえる。

 コンファレンスの後は大学院生のご案内でスウォンジーベイエリアで打ち上げ。ヨコハマみたい。って順番が違うのか。

 今回の旅では当地の大学院生や若手研究者の話がいっぱい聞けたのが収穫だった。案内してくれたKieronくんといい、非常に才能あふれ、かつ日本で教えたら「人気」が出そうな大学院生たちがいっぱい。いっちょ、日本に就職を求めて一度来て欲しいなあ、なんて考えた。

 一夜明けてカーディフへ移動。車窓から見た「インダストリアル・ウェールズ」。

 カーディフではベヴァンさんがお出迎え。

 ウェールズ議会(Welsh Assembly)を視察したり、

 炭坑ヘリテッジの施設(Rhondda Heritage Park)を訪問したり、

 1910年に炭鉱労働者による暴動があったトニーパンディー(Tonypandy)を訪れたり。

 ここでひどい雹にに襲われ、このまま遭難するのかと覚悟した。同時刻のスウォンジーでは、雹を味方につけて(?)スウォンジー・シティーがチェルシーと引き分けたらしい。それを言ったら到着直前にスワンズリヴァプールを下していたのだが。がんばれスワンズ。それはともかく、濃密にして有意義なウェールズ行でした。関係者各位に感謝。