哲学以前の脳科学

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)

 今もっとも「文学的」な人種は誰かと問われれば、文学者でも哲学者でもなく、脳科学者なのではないか。そんな一冊。

 「第三の文化」に興味を持っていろいろと読み進めるうちに、現在の日本での「第三の文化」論者の筆頭ともいうべきこの著者は避け得なかったわけだが、なるほど、何とも文学的なのである。これはバカにしているのではない。とんでもない。この一冊はあくまでエッセイ集であって、脳科学理論との結びつきはゆるやかなものでしかないが、エッセイとしての衝撃力は、これはすごいものがある。

 これを読んで人生を変える中学生や高校生が、いるだろう。

 ただ、中学生や高校生の読み物である、ということでもない。我々「おとな」が生きるために忘れ去っていることをぐいぐいと突きつけてくるのである。こういうものを書ける人は、生きるのが辛いんだろうなあ、なんて(生きるのが辛そうな人たちの書き物、というのは文学の一定義であろうが)。

 さて、茂木氏の中心概念「クオリア」はこの本では散発的にしか現れないが、通奏低音として響き続けている。クオリアとは人間の知覚や経験におけるリアルな質感のことであり、現象そのものとしてはモダニズム文学をやっていたりすれば大変分かりやすい。ただ、それはニューロンの発火によって起こっているはずであり、現代の脳科学ではニューロンの発火がいかにして「クオリア」の経験に結びつくのか、説明できない。逆に、説明できない「超越的な審級」にあるからこそ茂木氏はクオリアに注目する。

 この議論は、ニューロンへの還元主義だと切って捨てることはできない。「経験は所詮ニューロンの発火」ということではなく、「ニューロンの発火から〈経験〉が生じるという奇跡」を、恐ろしいまでに実直に解き明かそうというのだから。そこには〈経験〉に素っ裸で向き合う痛々しいまでの努力がともなう。

 その結果、いざ文学作品を対象にする際には、今文学研究者がやったら研究者生命の危機になりそうな印象批評が展開される。例えば、「今」という時間性を論じるくだりでの『枕草子』の一節。

職の御曹司にいらっしゃるころ、八月十日過ぎの月の明るい夜、中宮は、右近の内侍に琵琶を弾かせて、端近な所にいらっしゃる。女房たちの誰彼は話をしたり笑ったりしているのに、私はひさしの間の柱に寄り掛かって、ものも言わずにはべっていたところ、(宮)「どうして、そうひっそりしているのか。何か言ったらどう。座がさびしいではないか」とおっしゃるので、(清少)「ただ秋の月の風情をながめているのでございます」と申し上げると、(宮)「なるほど、この場にはふさわしいせりふね」と、おっしゃる。

 という一節には、私ならほぼ反射的に脱構築的批評をしてしまう。中宮清少納言に何かしゃべれという言語行為をし、清少納言はそれに応じているのだが、その言表内容はその言語行為を裏切っている(「喋ることなく秋の月を眺めているのです」と、喋ってしまっている)。中宮は、「(月を眺めているのが)この場にはふさわしい行為ね」ではなく「ふさわしいせりふね」と評価している。もし前者のように中宮が答えてしまったら、この一節のおもしろみは半減してしまうだろう。言語行為と言表内容の微妙なずれと、それを意識した掛け合いがこの一節のおもしろみになっている、とかなんとか。

 だが、茂木氏は、「ここには、清少納言という一人の人間が、今まさに月を見上げているという、その雰囲気」がとらえれれており、「清少納言のリアル・タイムの息遣い」が聞こえてきて、「時間の流れの中に澱となって沈む自意識のゆらめき」が伝わってくるとする。ほとんどヴァージニア・ウルフのエッセイのようである。だが、本気である。

 この本気さに対し、屈折一辺倒の文学者は、嫉妬するか、そうでなければナイーヴだと笑うしかないのであろうか。引き続き、小林秀雄賞をとった『脳と仮想』も読んでみたい。