国民文化?

 昨日は文化史教科書研究会。全ての章のプロジェクトを発表するという重要な会であるが、朝寝坊して慌てて出かけたら、三鷹までたどり着いた時点でプリントアウトしていた資料の一部を忘れていることに気づく。家まで一度戻り、再出発。一時間遅刻。すんません。

 しかも、自分の章のうちのひとつのプロジェクトがまだまだ空っぽで、困ったものだ。

 11時から7時過ぎまで、ケンケンガクガク。お疲れ様でした。

 個人的感想としては、このプロジェクトの初期段階で抱いた困難さの予感が、ここにきてやはり前景化したという感じか。つまり、20世紀後半にいたって「イギリス文化」というナショナルな枠組みを押し通したら、それはどうにもウソになってしまうということ。それを否定して、無理矢理「イギリス的」文化を捏造するのではなく、グローバル化のダイナミズムのうちにイギリスの特殊性を投げこむような記述の方法が必要だと感じる(それを実践できそうな章はすでにいくつかあるが)。例えば、昨日の会のあいだにも発言があったように、たとえば労働者階級を問題にする際にも、その「グローバルな再編」という観点を抜きにして、特殊イギリス的な「労働者階級」を想定するのは間違いであろう。そのような観点を導入することによって「イギリス」文化史であることの必然性がなくなるのを恐れる必要はなく、むしろそれは強みになるのではないかと思う。

 私のウェールズの章にもそれは言えて、炭坑産業からの脱産業化のプロセスはグローバルなエネルギー転換と産業構造転換の観点からも(あくまで「も」)見られるべきであって、またデヴォリューション後の「ナショナリズムリージョナリズム」も、それはグローバリズムの経験の一部なのである。あ、その点、宮崎駿ウェールズを徹底的に「グローバル化(世界化)」してしまっているのだな。

 話は飛ぶが、そのことは、「各国文学」的なものが不可能になってきている状況に、「イギリス」文学者や「アメリカ」文学者がどう応答するかということとも関わっていると思うのだ。