サバイバル

 研究進まなくて焦るなどと言いつつ思わず研究に直接関係ない読書をしてしまう。

生きることを学ぶ、終に

生きることを学ぶ、終に

 いまさら感はあるかもしれませんが、先日の共同祈願のこともあり。果たして、デリダにとっても生きることとはあらかじめ死を生きることであった。

私が「私の」本を残す(公になるにまかせる)とき(誰にも強制されるわけではありません)、私は、出現しつつ消滅してゆく、けっして生きることを学ばないであろう、教育不能のあの幽霊のようなものになるのです。私が残す痕跡は、私に、来るべき、あるいはすでに到来した私の死と、そしてその痕跡が、私より生き延びるという希望とを、同時に意味します。それは不滅を求める野心ではなく、構造的なものです。私がここに紙切れを残し、立ち去り、死ぬ。この構造の外に出ることは不可能であり、この構造が私の生の恒常的な形式です。毎回私が再自己固有化不可能な仕方で、何ものかを去るにまかせるたびに、しかじかの痕跡が私から去るたびに、私から「発する」たびに、私は、エクリチュールにおいて、私の死を生きるのです。(34-5頁)

 ジャン・ビルンバウムの序文に引用されているように、この一節は『マルクスの亡霊たち』の一節と響きあう。

生きること、それは定義上〈学ばれる=教われる〉ものではない。ひとりでは、自分からは、生からは、生によっては。他者からだけ、そして死によってだけ、それは〈学ばれる=教われる〉。

 ところで、デリダもくり返し使う、「生きのこる」という言葉は、フランス語や英語では日本語にはない含意を持っている。何と言っても、survive/survivreは他動詞として、「〜よりも長生きする」という意味で使える。誰かがこの世を去るときに、「私はこの人をsurviveした」という感覚が分節化されるのだ。これは、日本語ではあまり分節化されない感覚かもしれない。先日述べた「死から意味を受け取る」の意味は、生とは誰かをsurviveしつづけることであり、そして私の書くものが私自身をsurviveすることである、その限りで書く行為(私が「再自己固有化不可能」なものになること)は毎回死である、というものだったのかもしれない。