帰京

 はい、あけましておめでとうございます。

 年末から昨日まで長めの帰省。ゆっくりと仕事しまくるぞ!(というのは何かが間違っているが)と思っていたものの、そうはいかず。年末に子供が罹った急性胃腸炎、治ったと思っていたのだが、じいちゃんとばあちゃんにうつしてしまい、闘病の年末年始にさせてしまう。申し訳ない。

 ところで、帰省とダイエットは二律背反である、というのは去年も書いた気がするが、これは箴言ではなく単なる事実確認的な陳述である。これが一週間にも及ぶとなると、結果は大惨事。先月頭と比較するとなんとプラス2.2キロ。開始よりマイナス9.7キロ。大惨事。

 子供たちは広ーい田舎の家で大喜び。よちよち歩きが一気にちょっとした駆け足まで進化。言葉もぼちぼち増えてきたが、以前触れた「ワンワン」以外では「あーあ」とか、「えーっとぉ」とか、「いないいない、ばー」とか。最初の二つは親の口癖ですな。

 で、できた仕事といえば翻訳ゲラ校正ひとつ。ほぼそれだけ。本もいろいろ持って帰っていたが、読めたのはこれを半分くらい。

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題

 こんなに分かっちゃっていいのかしら、というくらい明晰。「分からない文章」が一文たりとも存在しないほど、着実にして明晰。

 とりあえず前半部では、マホーニィによるフロイトの「ドーラ症例」分析を枕とする第一章が印象的であった。メタ言語は存在しない、そしてメタ言語を装う言説をつねに切りくずすのが精神分析的言説である、ということならば、これは批評言語一般にあてはまることである。そして、その言語によって分節化されるのが、対象の「症状」のみならず、ほかならぬ「私」の症状なのであり、精神分析/批評が到達すべきなのがその事実の「引き受け」であるならば、これは、自分の靴紐をひっぱって体を持ち上げるようなものであり、この上なく困難な作業となる。

 と、いうところまで考えて、本書の言語の「明晰さ」に疑念が生じる。いや、これは言うべき事ではないのかもしれないし、読み進めてから判断すべきであろうが、本書がそこで主張されている方法を実践しているのか? という疑問である。これは非常にくだらない水準での「ダツコウチク」的言いがかりかもしれないが、常に批評のアポリアとして出現してきた問題でもある。ラカンの「『盗まれた手紙』についてのセミネール」の、デリダによる批判とバーバラ・ジョンソンによる再批判とか。

The Purloined Poe: Lacan, Derrida and Psychoanalytic Reading

The Purloined Poe: Lacan, Derrida and Psychoanalytic Reading

 ゆっくり論文を書けるかと思っていた春休みもどんどん予定・締切が入り、結局自転車操業になりそうな予感。商売繁盛は慶賀すべきか。さて、これから年末に結局できなかった大掃除の続きと、論文の改稿を。