ニートとニューロサイエンス

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

 以前訳者から献本を受けた際に紹介したが、現在、脳科学グローバリズムに関する論文というか雑文を準備中で、改めて読む。これはやはり滅法おもしろい本である。

 本書の主張が凝縮された部分を引用で示すと、次の通り。

イデオロギーの次元で、『大多数の』大衆に理解できる認知科学の分析と、マネージメントの言説……とを厳密に区別することは、今のところ不可能である。」(88)

イデオロギーの次元で、神経変質疾患と社会的なハンディキャップとを厳密に区別することは、今のところ不可能である」(89)

 マラブーデリダの最後の大弟子であり、ヘーゲルに関する博士論文を出版している哲学者である。その博士論文(未読)は、ヘーゲルにおける「可塑性(プラスティシテ)」の概念を中心に論じているそうで、この脳科学グローバル資本主義の共犯関係を告発する書物は、その「可塑性」がニューロサイエンスで言われる脳の「可塑性」に転移されて論じられている。

 私もニューロサイエンスなど素人であるので、分かった範囲で大まかにまとめると、従来的な脳の隠喩(決定性、コンピューターのような安定的機械)はすでに無効であり、ニューロサイエンスの発達によって、現在の脳についての俗説的言説は「多形性、柔軟性、ネットワーク」といった隠喩に傾いている。

 マラブーはボルタンスキ/チアペッロ『資本主義の新しい精神』(未邦訳、英語訳は出版予告がとっくに出ているが、未刊)に依拠しつつ、そういった多形性や中心を持たないネットワークといった隠喩が、リベラルなグローバル資本主義のマネージメントの言説と相同的関係にあることを指摘する。先の引用の前半はそういうこと。

 そのような資本主義社会における労働者は、同様に柔軟で多形的であることを求められる。先取りすると、「可塑性」という概念は「決定」でも「多形」でもないものとして措定される。多形性が「形を受け取る能力」であるなら、「可塑性」は「形を受け取り、かつ形を与える能力」とまとめられようか。

 さて、グローバル資本主義に求められる多形性を持ち得ない労働者は、うつ病になる。これが引用の後半の言っていることだ。医学の言説ではうつ病からの回復が「柔軟性の回復」であるのと並行して、社会的レベルでは柔軟性を失うことは雇用可能性の喪失・落伍を意味するのである。

 このマラブーの書物に補助線を引くならば、まずはC・P・スノウの「二つの文化」から「ソーカル事件」にいたるまでの、科学の言説と哲学(や精神分析)の言説との間の闘争である。現在、認知科学は「二つの文化」を統合して「第三の文化」として君臨しつつある。これについてはジジェクもことあるごとに批判している。

 もうひとつは、ベルクソンからドゥルーズ、そしてマラブーに至る哲学の伝統(フーコーも入れないと)。この伝統と、精神分析の伝統(そしてジジェク?)との微妙な関係も重要な文脈であろう。マラブーフーコーの衣鉢を継いで、現在は「脳」が、20世紀にとっての「性」の位置を占めつつあると考えているのだ。

 これだけの広がりを示すだけでも、マラブーの仕事の重要性が分かるだろう。

 さて、「可塑性(プラスティシテ)」はついには「プラスティック爆弾」と響き合う。これは、現在のグローバリズム下では、それを破壊しようとする暴力が「テロリズム」としてのみ表象されることに対して、「可塑性=プラスティック爆弾」であるような、テロリズムではない暴力の可能性を概念化しようとする試みである。マラブーは可塑性の概念によってニューロサイエンスの言説の内破と同時に、グローバリズムに対しても「可塑性=プラスティック爆弾」による内破をもくろむのである。それを、マラブー自身はごく「哲学的」な営みとして行う。人間の認識に形を与えるべき概念の彫琢という営為として。

 本書は小冊なので、マラブーの思考の多様な可能性を示唆するにとどまっている。翻訳に付されたインタビューでは精神分析に関する著作を準備中とのことで、楽しみだ。