大学合併に思う

 So-net Blog、最近重いなー、と思っていたら、昨日の晩はさっぱりつながらなくなった。一説にはだいたひかるの結婚発表のせいだとか。それが本当なら、有名人ブログへのアクセス集中対策くらいしとけ。引っ越したいと思ったのはこれで3回目くらい。

 昨日書こうと思っていたのは、兵庫の関西学院聖和大学との合併について。聖和が関西学院に吸収される形。2008年をめざして交渉を始めたという。

 今年中に資金繰りに行き詰まる大学が……と書いたばかりだったが、早速実現してしまった。「予言が当たった」などというつもりは全くない。だって、予言じゃなくて、状況を総合して必然的に出てきた「予想」だったので。

 それはともかく、聖和大学の名は(申し訳ないが)全国区ではないだろう。しかし、創立は1880年と、大変長い歴史を持つ大学である。

 しかし、ここ最近の沿革を見ると、経営の苦しい小規模大学の典型を突っ走っている。共学化、1992年に大学院博士課程、1995年に「人文学部」を開設、2002年にはその人文学部の「英米文化学科」を「グローバル・コミュニケーション学科」に変更。

 何が典型なのか。大学は今、学生を集めるために「毎年何かを変えなくてはならない」というオブセッションに支配されている。確かに、変えればその分学生が来るのだが、効果はだいたいその年限り。そのため、次の年もやはり何か変えなきゃ、となる。

 で、変化の選択肢は非常に限られている。女子大だったら共学化、短大だったら四大化、四大だったら大学院開設。学科・学部をいじり、聖和のような「ヨコモジ学部」をつくる(このはやりはもう廃れたので、今は人文系なら「人間文化」とか「国際」とかの日本語に回帰している)。あとは、取得できる免許を増やす。

 しかし、あらゆる大学で「変化」が常態となり、その変化のヴァリエイションが限られていると、何が起こるかといえば、「変化」が他の大学との「差異化」にはつながらないということである。さらに言うと、「差異化」というのは他の大学の変化に時間的に先んじなければ意味がない。多くの小規模大学は、全体的な変化に青息吐息でついて行っているだけ。

 差異化の原理に従うなら、全ての大学が変化する中で、「変化しない」というのが最も強力な差異化につながると思うのだが、どうだろう。

 もちろん、このような物言いが現実的でないことは重々承知している。「相変わらずダメなところ」は変えなきゃいけないが、「相変わらずいいところ」を保存することにも、もっと心を砕いてもいいのではないだろうか。