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 新書は、読まないんだからねッ!と、誓っていたのだが思わず。

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

 まあ、とりあえず大学関係者と教育行政関係者は必読でしょう。あとは子供が大学院に行きたいなどと言い出しているご家庭のみなさまも。

 私はこの本では黒幕的存在として扱われる大学院の出身、つまり既得権益保持者であり、しかもなんとか定職を得ている身なので何を言っても唇の寒いことになりかねないが、「2006年人文・社会科学系博士課程修了者のうち、19%が『死亡・不詳の者』」である、というのは結構実感に近いぞ。この統計上のカテゴリー名のなんと不気味なことか。ほんの数年前までの、胃に穴が空きそうになった日々を思い出す。

 これは批判ではないが、あまり新しい洞察はない。私の年代あたりから下には実感として染み入っている現状をコンパクトに記述してくれている。その分、この時代のドキュメントとしてはどこまでも正しいわけで。

 「壁のこちら側(もしくは向こう側)」に来てからの短い間、時折考えるのは、大学にいわゆる「ワークシェアリング」のような考え方を適用するとして、自分はそれを受けいれますか?ということ。

 ワークシェアリングといっても、部分的な話ではなく(つまり、任期制教員を増やすとかではなく)、全面的に。つまり、専任教員の人数を単純に一人増やすとして、10人いる学科をモデルにし、若い教員を雇うとすれば、年間50万円強の収入を全員カット。授業の負担は0.5コマ減。その他の業務も微妙に減る、と。

 うん、いいんじゃないの。現在の大学教員の総数は分からないが、これを全面的に実施すれば相当数の雇用が創出され、多くの大学が抱えている「大学院の出口問題」も改善。教員一人当たりの学生数は減る。大学教員、つまり講義やその他の仕事時間以外は一秒でも多く研究に捧げたいと願う人びとは大喜び。あとはこれを「みんなで一斉に」(これが重要)できるかと考えた時に、このアイデアが夢物語であることに絶望するしかないわけだが。でも、いいんじゃないだろうか。