不自由な教養

教養の再生のために―危機の時代の想像力

教養の再生のために―危機の時代の想像力

 東京経済大学で2004年に発足した「21世紀教養プログラム」というコースの発足記念講演会などを再録したもの。

 著者とタイトルから想像がつくように、『グロテスクな教養』とは何とも対照的な教養本。教養とは、権力や制度の外側を想像し、「他者」を想像できる自己を養うためのものである、という、かなり正統的な「教養」観につらぬかれている。

 ひとことで言ってしまえば、それは自由で自律的な主体になろう、という啓蒙主義のプロジェクトとしての「教養」である。それを片方で信じつつ、アウシュヴィッツ啓蒙主義の廃墟)で絶望的に教養にすがったプリーモ・レーヴィを語ることは、かなりの離れ業なのだが、それが徐氏の中でどのように両立しているのかが分からない。

 加藤周一氏は医学博士でありながらにして評論家・作家活動をしてきた観点から、「二つの文化」という問題を提出していておもしろい(本書でこの論点が発展させられることはないが)。

 「二つの文化」とは、イギリスの作家であるC・P・スノウの講演からとられたものであるが(加藤氏はスノウには言及していない)、要は人文学と自然科学のこと。加藤氏はよく自動車の例でそれを説明する。曰く、自然科学的な「文化(=教養)」によって自動車をより速くすることはできるが、目的地を選ぶことはできない。目的地の選択には人文学的「文化(=教養)」が必要なのである、と。

 ここでも人間が究極的には「自由に」目的地を選ぶことができるという、すなわち主体の自律性というゴールが設定される。

 この本は、上記のような経緯からすべて学生に対する語りかけになっているのだが、私はむしろ、学生に教養を語るならまずは人間の「不自由さ」を徹底的に教えるべきだと考える。落ちる石は、自分の意志で地面へと向かっていると考えるだろう、ということを。

 というのも、教養「主義」が成立するためには、自分が知らないことに対する知的ドライヴというものがないと始まらない、つまり、自分が「知らない」ということを知り、ひょっとすると「知らないという事実も知らないのではないか」という事に対する不安を覚えないと成立しないからだ(そこに、ラカンの「知ると想定される主体」が介在すれば、「教養主義の場」は完成)。自由=外部の認識というのは、そのように自分の限界=不自由を徹底的に知るという不安極まりない経験からしか生じ得ないはず。プリーモ・レーヴィアウシュヴィッツ体験というのはまさにそのような極限であったのではないか。

 なんて言っても、「どうせ、あたしバカだし〜」とかいう開き直りに対しては無力なわけだが……