『デューン 砂の惑星PART2』(2024)

原作からデヴィッド・リンチ版と、思い入れの強い作品なので色んな先入観が介在するのですが、ともかくも公開日にIMAXで。IMAX必須。

ヴィルヌーヴ作品って、美しくて完成度が高いけど(そうであるがゆえに)、表面がツルツルでひっかかりがない印象があり、『デューン』については、PART1は完成度は高いと思うし楽しんだのですが、この作品のいかがわしさ、リンチ版を観た時や原作を読んだときの、「なんだかヤバいものを観て/読んでしまった」という感覚が削がれているなあという感覚が拭えなかったのですが、このPART2は、ヴィルヌーヴ流ではあるのですが、これでもかとばかりにその色を濃くしたものになっていて、ここまでやるなら認めるしかない(←何様?)という感じでした。

原作を読んだのが本当に昔なので記憶がないのですが(そういう説明があったかどうかも覚えていないのですが)、今回サンドワームに乗るときの方法はよく分かったのですが、降りるときってどうするのかしらん?

猫の逆襲〜『ARGYLLE/アーガイル』(2024)

『枯れ葉』『落下の解剖学』と、犬映画の攻勢が強まっていた昨今ですが、ついに猫映画の逆襲です。というわけで『アーガイル』。

キングスマン』シリーズのスピンオフですが、私は本シリーズの方は一作目はとても好きなのですがその後はぱっとしないな、と思っていました。ですがこれはいい。複雑だけどもバランスのとれたプロット構成と、バカバカしい設定や展開が絶妙に混ざり合って最終的にはスカッとさせてくれるのは、『キングスマン』第一作を見た時の感覚。以下、猛烈にネタバレです。観る予定の人は絶対に読まないでください。

物語は、スパイ小説作家のエリー・コンウェイが、彼女『アーガイル』シリーズが実際に存在するスパイ組織と陰謀組織に酷似していたために陰謀組織に命を狙われる、というところから始まりますが、その後フィクションと現実が入り交じりつつ新たな真実が二転三転して現れ、最終的にエリーは元二重スパイであり、任務中に重症を負って記憶喪失となった際に陰謀組織ディヴィジョンに洗脳され、作家としての別の人生の記憶を植えつけられていたということが明らかになります。『アーガイル』シリーズは未来予知ではなく、エリー(エージェント名はR. カイル=アーカイル)の過去の記憶に基づくものだったというオチ。

エリーの作中のエージェント・アーガイルはヘンリー・カヴィルが演じるマッチョなハンサムなわけですが、それはエリーが自分の姿を移し替えたものだったわけです。そして序盤からエリーを助けるスパイ、エイダン・ワイルドは、現実にはくたびれたおじさん(でもなんだかんだで強い)なのですが、エリーの作中ではこれまたマッチョなハンサムでアーガイルのバディです。

つまり、あれです、エリーは腐女子なわけです。いや、腐女子とラベルを貼って済ますべきではないかもしれない複雑な性的アンデンティティと性指向がこの映画を駆動している部分はあったのかなと。

ビートルズの「新曲」、'Now and Then'の使われ方、とても効果的でした。この映画のために作られた曲みたい。

で、猫ですが、良かったんですが、ちょっと扱いがハラハラする部分も。

 

犬の年〜『落下の解剖学』(2023)

猫派の私としては複雑な気分ですが、立て続けに素晴らしい犬映画が公開されました。『枯れ葉』に続いて、『落下の解剖学』の盲導犬スヌープ。最高。

というわけで、パルム・ドールとパルム・ドッグをダブル受賞したジュスティーヌ・トリエ監督の『落下の解剖学』。評判に違わぬすばらしい映画でした。以下ネタバレします。

ドイツ人の作家サンドラは、夫サミュエルと、事故で視力障害者となった息子とフランスはローヌ・アルプの山荘に暮らしているが、ある日夫が山荘から謎の転落死を遂げる。状況からサンドラは夫の殺害を疑われて起訴され、裁判となる。残る映画の大部分は裁判ものではあり、確かに新たな事実の露見や真犯人をめぐるサスペンスに観客はぐいぐい引きこまれるものにはなっているのですが、重要なのは、最後まで真犯人が誰かは分からないこと。いや確かに判決は出るし、ある程度の「真実」らしきものは提示されて終わるのですが、そこに残るのは、有罪か無罪かという二項対立では何一つ掬いきれない、この夫婦と家族をめぐる全体的な状況と細部の感情なわけです。

最後の方で弁護士のヴァンサンが、サミュエルの自殺にいたった内面をみごとに弁論するのですが、その直後、閉廷後のざわつきの中でサンドラがヴァンサンに「私の夫はそんな人ではない」と反論している。この場面が多くを語っていたと思います。

裁判とは劇場的であり、したがって裁判が映画そのもののアレゴリーになるというのは常套的かもしれませんが、ここではまさに、語られ、表象されたものの向こう側にこそ真実はある、という、優れて文学的な主題が劇化されたと思います。

ところで、この映画は『ター』を想起しながら観ざるを得ませんでした。サミュエルが残していた、サンドラとの暴力も交えた喧嘩の録音が法廷で流され、スクリーン上ではそれがフラッシュバックで映像化される(が、肝心の暴力の場面は音声だけに戻る)場面は、この作品のテンションを一気に高める名場面だったと思いますが、この喧嘩の内容、まるでひと昔(ふた昔?)前の、仕事ばかりして家庭を顧みない、なんなら不倫もしている夫と、自分でもやりたいことがあるのに家事育児に時間を取られ、夫からの「協力」も得られない妻との間の喧嘩のようでした。ただし、ジェンダーは逆ですが。

ハラスメントものなのだけど、ハラッサーが(レズビアンとはいえ)女性であった『ター』は、正直に言って反動的というか、告発型フェミニズムに対するポピュラー・ミソジニー的な反感のようなものを感じざるを得なかったのですが、『落下の解剖学』はその観点ではどうなるだろう、と考えました。

表面上は、従属化し、仕事の上でも妻に完全に先行された夫のルサンチマンというのは、新たなミソジニーの形態を地で行っているな、と思いました。彼の自殺が真実なのであれ、他殺が真実なのであれ、そのようなルサンチマンミソジニーだけは確固とした柱として残ります。そして、最後に息子のダニエルの証言に表現されていた犬(スヌープ)=サミュエル、という図式はやはり、ケアですり減って死んでいく父、という図式なわけで、ケアリング・マスキュリニティの表象としてはいかにも悲観的だし、下手をすればルサンチマン的になってしまいそうだな、と思わざるを得なかったところです。

『ボーはおそれている』(2023)

この映画についてはこの後映画評を書くので、肝心なことは書きませんが、私、ホラー映画は怖いので好きではなく、アリ・アスター監督の『ヘレディタリー/継承』も『ミッドサマー』もそんなに好きではない、というか『ミッドサマー』なんて『ウィッカーマン』の焼き直しじゃねーかとか思ってしまっているのですが、この作品についてはまったく違う評価です(ついでながら、『ミッドサマー』は『犬神家の一族』へのオマージュとかもあり、当然これまでの「因習村」ものは押さえた上での映画ですが。因習村ものといえば、変化球としては『ホット・ファズ』が大好きですが)。

そもそもホラー映画ではなく、カフカ的不条理の世界での『オデュッセイアー』的帰郷の物語で、かなり面白かったです。3時間という長さですが、求心的な帰郷の物語、主人公と母親の過去がその冒険が進むに従って明らかになるサスペンスとその解消といった構造がかなりしっかりしていて、よくできていると思いました。

これは映画評では書かないと思うのですが、『ガーディアン』紙の映画評はこの映画にロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の物語が響いていると指摘しています。確かに、最初はボー自身が誕生する(子宮から出てくる)ところをボー視線で描くのですが、そこでどうやら医者がボーを落としてしまって頭を打つというくだりがある。『トリストラム・シャンディ』では、産婦人科医のへまで鼻を潰されるエピソードですね。そしてナラティヴがいくら進んでも主人公が生まれるところまでさえもなかなかたどり着かないあれも、『ボー』が(求心的とは言ったものの)同じ場所をぐるぐる回って前に進んでいないようなあの感じと共通しているのでしょう。

私がこの映画を気に入った理由はそこなのかもしれません。『トリストラム・シャンディ』大好きなので。

しかし、字幕はずっと「ボウ」だったのはどうしてでしょうね?

『アメリカン・フィクション』(2023)

しばらく諸々で忙しすぎて映画館に行く暇もなければ家で映画を見る暇もなかったのですが、そんな合間にこちらを。

黒人の作家が、自分の純文学指向をかなぐり捨てて、おふざけで書いた「黒人的」小説──白人たちが期待するような「黒人的」内容の小説──が大ヒットしてしまう、という概要だけを目にして、ある種の「ポリコレ/ウォーク揶揄」のあれかと警戒して観たのですが、結論からいうとそういうものではなく、かなり面白く観ました。

これはもはや民族(「人種」)だけではなく、現代社会に向けてものを書くこと一般につきまとう書き手のアイデンティティの問題を広く考えさせるものになっていると思います。書き手というものは、自分の単独的な経験を抱えもってものを書いているのだけれども、世間にとってそんなことはどうでもいい。アイデンティティ=属性の箱の中に放りこまれ、書いたものを本当の意味では読んでもらえない(放りこんだ属性に関する偏見のメガネを通じてしか読んでもらえない)という経験は、ものを書く人なら誰しも経験しているのではないでしょうか。この映画、そういう一般的経験に訴えるものになっていたと思います。そういう意味で面白く観ました。

猫依存〜『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』(2016)

2月22日はニャンニャンニャンの猫の日ということで、何か猫関係の映画を観たいなと思ってこちら。ベストセラー本となった実話を元にした映画です。

ロンドン。麻薬常習者のホームレスのジェームズはなんとか更生しようと苦闘している。ソーシャルワーカーのヴァルはこれが最後のチャンスだと感じてジェームズに住居を見つける。そのフラットに迷いこんできた野良猫(ボブ)が、ストリートミュージシャンであるジェームズに思わぬ幸運をもたらす、というお話。

まず、イギリスでのホームレスの問題というのは深刻の度合いを減らすどころか増している状況。この映画が公開された2016年は私はちょうどサバティカルでイギリス(ウェールズ)にいましたが、都市部(そんなに大都市である必要はない)のホームレスは日常的に目にするし、ホームレスに余ったサンドイッチをあげるといったこの映画でも描かれる行為も普通に見られました。

ホームとホームレスネスをめぐる映画といえばやはりまずはケン・ローチで、古くは『キャシー・カム・ホーム』がありますし、『SWEET SIXTEEN』も「家」が重要な役割を果たします。最近ではイギリスではなくアイルランド映画ですが『サンドラの小さな家』がありました。アイルランドも住宅問題がひどいことになってますね。

日本も不動産バブルが起こっていますが、バブルで金融資本家たちが沸きかえる中、住む場所を失う人たちが出るという、アイルランドやイギリスで起こっていることが日本でもこの後激化するかもしれません。

で、映画ですが、どうしても気になるのは、ジェームズはストリートパフォーマンスや、『ビッグイシュー』販売で成功するのですが、それが全部猫のおかげで、誰も彼の歌を聴いてないし、『ビッグイシュー』の中身に興味があるわけではないという点です。

しまいにはジェームズは、薬物依存からは脱するけど猫依存になっていないか? と心配になりました。ボブが姿を消した時のジェームズは薬を断ったジャンキーそのものです。

しかしその一方で、あらゆる依存を断たなければならないという考え方も退けるべきでしょう。私たちは多かれ少なかれ依存的にしか生きられない。いかなる相互依存の社会を作るかということ、どのように依存しないかではなく、どのようにうまく依存し合うかが鍵だと思うのです。その意味で、ジェームズが薬物依存から猫依存になったというのは、まったく問題ないどころか歓迎すべき事態なのでしょう。この映画は私たちの社会が猫依存社会であることを鋭く指摘しているのかもしれません(?)。(でも、猫映画をいくつか考えてみても、猫が社会の裏側で人間を支えている的なのは多いような。)

『枯れ葉』(2023)

カウリスマキ監督の「復帰」作。観なきゃ観なきゃと思ってて気づけば終わりそうなので慌てて。

昨日あたりからなぜかメンタルが落ちてたんですが、1時間20分のこの短めの映画を観終わって、すっかり気分が晴れている自分に気づきました。不思議。そんなに「元気が出る」系の映画ではないはずなんですけどね。でもなんだか、感謝です。

カウリスマキらしく、肉体労働者たちの生をコミカルなまでに削ぎ落とした表情とアクションで描く。筋立てもごくシンプルなんだけど、それをここまで見せるのはさすが。ずっと見ていたい、この映画世界にずっととどまりたいと感じさせるのは、先日の『夜明けのすべて』に通じるものがありました。

ところで、主役の2人が初めてのデートで映画に行くのですが、その映画がジム・ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』なのには笑いました。両監督に親交があるとか、カウリスマキが映画を引用しがちとかあるわけですが(そこで他の観客が「ゴダールを感じた」的な的外れな感想を言っているのは観客やシネフィルに対する毒のあるアイロニーだなと思いましたが)、初デートでその映画かよ、という笑い所。でもその映画でOKであったゆえに、2人の感性が一致していることが強調されるわけですけど。『デッド・ドンド・ダイ』、評判は悪いですが私は好きでしたが。

初デートでとんでもない映画に行くといえば『タクシードライバー』ですね。結果は正反対ですが。引用でしょうか。

デートに適さない映画と言えば、『哀れなるものたち』を何も知らずにデートで観に行って終わった後にお通夜みたいになっているカップルの目撃談を複数聞いてます。

あとはとにかく犬がかわいい。私は猫派ですが、人生で一番かわいいと思った犬でした。あの犬なら飼いたい。