「原作に忠実」とは〜うずめ劇場『地球星人』

村田沙耶香の『地球星人』の舞台化ということで、観てきました。

とにかく原作に忠実に作っていくという意思が見られ、その妥協のなさが3時間半という上演時間にもつながっているのですが、その長さを感じさせないテンポのよい芝居でした。ただし、「忠実」とは言っても、プロットなどをなぞるというだけの問題ではありません。小説の原作の「精神」に忠実であるためには相当の工夫と努力が必要になり、それをみごとになし遂げた舞台だと思いました。

小説の舞台化や映画化に必ず伴う難題は、小説のナラティヴをどうやって移し替えるかということだと思います。とりわけ、語り手をどれだけ信用していいかわからないタイプの小説における、出来事と読者/観客との距離は、舞台/映像では意外と表現が難しい。

例えば最近だと『哀れなるものたち』ですが、あの映画は原作のメタフィクション性を表現するのは諦めましたよね。あれはあれで賢明な選択だったと思います。

今回の『地球星人』の場合は、数種類のナレーションを入れることで小説のナラティヴの舞台的な再現が試みられました。それ自体は大発明というわけではないでしょうけれども、ここでも原作を再現しようというリスペクトが感じられましたし、効果的だったと思います。

役者さんは大変だったろうなあと思います。どれくらい観客にマジに受け取ってもらうのかという塩梅が。まあおそらくその辺は考えすぎずに全力で演じるんだと思いますが、それはそれで村田ワールドに「持っていかれそう」で怖い……。それにしても主人公の奈月の少女時代を演じた春名風花さんと現在を演じた後藤まなみさんの演技がそれこそ鬼気迫るものがあり、すばらしかったです。3時間半、舞台の推進力になり続けることは生半可なことではないです。拍手。

で、ここから先は今回の舞台というよりはほとんど原作の小説の話になってしまいますが【ネタバレ注意】、この作品の前半は性暴力とガスライティングがテーマになっているように見えます。奈月は塾講師に受けた性暴力について、母から自意識過剰であり性的に受け取ったお前の勘違いだというガスライティングを受けるわけです。これは現在、ハラスメントや性暴力の被害をなかったことにし、被害者を責める手法の基本になっているやつです。

なかなかに困難なのは、このガスライティングを問題にすることと、村田沙耶香の十八番とも言える、この場合は『地球星人』というタイトルに表現されている、支配的な「常識」の転覆との関係です。というのも、村田作品は支配的な「常識」の転覆(そしてそれに付随するかもしれない常識の批判)を中心とするのですが、ガスライティングもまた被害者の「常識」を徹底的に、ポストトゥルース的に破壊することを基本とするのです。

つまり、村田作品は常に、危険にも陰謀論ポストトゥルースに接近するところがあって(それは火中の栗を拾うような、必要な挑戦だと思うのですが)、それをどう考えるのかが鍵なのです。

『地球星人』の場合は、終盤の過剰さはその問題を徹底操作するために存在すると私は思っています。一見、序盤の性暴力の問題は後半に直接的には霞んでいくようにも見えますが、上記のような陰謀論的構造をいかにして徹底操作して脱するかという難問に、この作品は取り組んだのだと思います。

結末で3人は、本当に新たな存在になって歩み出します。これは決して「狂気の果て」といったものではなく、非常に爽やかな、希望に満ちた旅立ちのように私には読めました。今回の舞台版の観客がみなそのような希望をラストシーンに感じとったかどうかは分かりませんが、私は少なくとも感じました。その意味でも、原作に最良の意味で「忠実」だったのではないでしょうか。

 

追記:これを書いた後、出演者の一人の吉村元希さんとのやりとりで気づいたことのメモ。一つ、山道を車で走る場面で運転手が右にハンドルを切ったら同乗者たちの体が右に振られる、という演出があり、それは実際は逆だろうと思って(右に切ったら同乗者の体は左に持っていかれる)そう指摘したのですが、まあそれは演出のお約束みたいのもありますよねとは思います。

ただ、よく考えると、この作品では車酔いが妙に重要なモチーフになっていて、ひょっとすると上記のガスライティングや常識のキャンセルの問題と車酔いって響き合ってるんじゃないかと気づきました。

吉村さんのご指摘では、車酔いがひどい人は車が曲がる方向に体を傾けて酔いを防ぐそうです。つまり、「工場」の常識に体の傾きを合わせないと、ひどく酔ってしまうかもしれない。この作品は、徹底的に体を逆に振って徹底的に車酔いするとどうなるかという話なのかもしれません。

リアリティ番組とデスゲームものの彼岸〜『ロブスター』(2015)

『哀れなるものたち』で話題沸騰?のヨルゴス・ランティモスの初英語作品。未見でした。

私、近著(『はたらく物語』『正義はどこへ行くのか』)でリアリティ番組とデスゲームものについてそれぞれ論じたのですが、その二つの関連性をしっかり論じられていないことに、これを観ながら気づきました。

というのもこの映画、完全に、ハリウッドであればマリブの豪邸に男女を集めて恋愛をさせるようなリアリティ番組と、日本であれば『バトル・ロワイアル』以来のデスゲームものの両者をごたまぜにしてパロディ化しつつ批判するような映画だからです。

異性愛が強制される近未来社会で、パートナーを失った主人公たちは豪邸に集められ、期限までにパートナーを見つけられないと動物に転生させられるという設定。主人公は転生先にロブスターを選ぶ。主人公は中盤でこの屋敷から逃亡し、森の中のレジスタンス集団(?)に所属するものの、今度はこのレジスタンス集団は恋愛を厳しく禁止していて……。といった物語が、ランティモスらしいかなりシュールな台詞やアクションで進められていく。

屋敷がリアリティ番組のパロディで、森のレジスタンスがその外部かと言えばそんなことはなく、あのような「反乱」はすでに映画的な物語ではお馴染みのものになっていて(『バトル・ロワイアル』そのものがそうだし、あとは『ハンガー・ゲーム』など)、この映画のアイロニーはそこにまで及ぶと考えるべきでしょう。

ポイントとしては、異性愛カップリングを極端に強制する社会とそれを禁止する社会のあわいで、主人公が「真の愛」を見いだす、という構図になっていたらそれはつまらないなあ、というところなのですが(そしてそのように読むことも可能にはなっているのですが)、その「愛」の表現が、大いに曖昧性もはらみつつ、並々ならぬものになっているところでしょうか。

『夜明けのすべて』(2024)

『ケイコ 目を澄ませて』の三宅唱監督の新作。

前作と同様に素晴らしい傑作でした。途中、どこで終わっても自然に感じるだろうけれども、同時にいつまでも続いて欲しい時間。そして彼らの生活はエンドロールの後にもずっと続いていくのだろう(全ては変転するし、人生に終わりはあるだろうけれども)という確かな感覚。そんな感覚を抱かせる映画は希有だと思います。

人間は孤島であり、とりわけ共有できない苦しみや喪失を抱えるときにその事実は重みを増していくのですが、もっとも親しい人とさえも本当の意味では共有できない苦しみを抱え、他者も同じ孤島に住んでいるのかもしれないと気づいた瞬間にこそ、かろうじて少しだけ他者に触れる可能性が開かれる……。苦しみや喪失は、繋がれないという事実を突きつけることによってこそ人を繋げる。そういう瞬間を、脚本、演技、カメラと照明と音声、そういったものすべてを奇跡的にかみ合わせることで見せてくれる映画です。本当にすばらしい。

PMSに苦しむ藤沢とパニック障害に苦しむ山添を受け入れる中小製造業の栗田科学が、あまりにもユートピア的で善人ばかりだという意見もありそうですが、もう一方で、この世の中の人間はあのように善良たり得るのだという信をもって描くことを「決断」した映画なのだろうと私は思いましたし、それを歓迎したいです。

否定形での評価はしたくないですが、障害を情動的に消費しないこと、異性愛規範に凝り固まった人間関係は描かないこと、プロットのために登場人物を動かすということをしないこと(だけど、説明過剰ではないさりげない演出で心の動きを確実に描いていくこと)、そういったことが徹底されていて、こういう映画をずっと観たかったと感じました。

今年は早速に傑作が多すぎません? 終演後、家族にたい焼きを買って帰りましたとさ。

『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』(2023)

ダンジョンズ&ドラゴンズ、確か中学生のころにプレーしてて、『ロードス島戦記』とか『ドラゴンランス戦記』とか、スピンオフの小説も夢中になって読んでました。

ということで今回の映画化は気になっていたのですが、コロナ明けでようやく公開されたのをようやく配信で。

エンターテインメントとして非常によくできていたと思います。個人的にはヒュー・グラントがなんとも言えずよい。この人は若いときからうさんくささというか偽物感というか、そういうものを醸し出させたら天下一品であったと思うのですが、老境にいたってそれに磨きがかかったというか……。

ディズニーの『ウィッシュ』のマグニフィコ王はヒュー・グラントっぽいのだけど、むしろ『D&D』の主役エドガンのクリス・パインが演じたというのが面白いところです。クリス・パインもいい嘘くささをまとった役者ですね。

ところで、映画の感想はそれくらいなんですが、観ながら思いだしたのは、私は上記の『ドラゴンランス戦記』の中でも、マジックユーザー(魔法使いなんですが、D&Dの話をするならこう呼ばないと)のレイストリン・マジェーレが大好きだったこと。レイストリンはファイターのキャラモンの双子なのだけど、身体虚弱でずっと咳をしている。だけど魔法には長けていて、若くして「大審問」というテストに合格した、という設定。性格はねじくれてて仲間ともうまくはやっていけないけど、時々ツンデレ的に善行をする、という感じだったと記憶してます(なにしろ30年以上前の話なので……)。

善悪で言うと中立の赤いローブを着ているのですが、それが「闇落ち」して黒ローブを着るようになる。その辺のくだりがたまらなく好きだった私はどんな子供だったんだろう……。(というか上記のヒュー・グラントといい、私は嘘くさいものとか悪いものとかがどうも好きなんですね。)

それにしても、D&Dは、現代的なRPGの源流ということもあるのですが、自分たちでストーリーを想像/創造するという参加型の文化であり、それが上記のようなメディアミックスで展開していったというのは、いわゆるコンヴァージェンス・カルチャーの代表例のひとつですね。研究とかあるんだろうか。ありそう。

ということで、昔話でございました。

中井亜佐子『エドワード・サイード──ある批評家の残響』(書誌侃侃房、2024)

 

著者とのトークイベントが控えているので、詳しくはその時に話したいとは思いますが、一周目を読了して、これは早く多くの人にお勧めしたくてちょっと書いておきます。

没後20年のサイードパレスチナ情勢が野蛮なことになっている今、再び亡霊のようにその名が人びとの口にのぼるサイード。私も「サイードが存命だったら何を言っただろうか」と考えたことは確かです。

本書はそのサイードを「批評家」として読みます。これは当たり前というかトートロジーで、サイードはずっと批評家だったのですが、おそらく改めて確認されなければならないのは「批評」「批評家」とは何か、ということでしょう。本書はその広い問いへの答えにもなっています。

本論は三章立てで比較的にコンパクトなこの本は、コンラッド(文学)、フーコー(哲学)、ウィリアムズ(社会思想)がどのようにサイードへと「旅した」かという仕立てになっています。(もちろん、「旅する理論」は本書の鍵テクストです。)

個人的にはやはりウィリアムズの章が気になるところで、サイードが実証的にウィリアムズの著作に影響を受けていたということをちゃんと書いてくださったということも重要なのですが、私としてはやはり、ウィリアムズのコミュニティ論をサイードは自分の文脈で十全に受け取って肯定することはできなかったわけで、その齟齬こそが重要なのかな、と思ったりしました。ただ「旅する」とは常にそういうもので、生産的な齟齬の存在が重要です。(だから、中井さんらしい独特の言い回しで述べられるように、読んでいる批評家と友達になれなくてもいいし、ましてや一体化しようとするのは間違っている。)

本書の一つの通奏低音は、リタ・フェルスキらの言う「ポストクリティーク」との対話です。これまた個人的にはポストクリティークという言葉で問題にされていることなんて、ずっと「イデオロギー批評」やカルチュラル・スタディーズが問題にしてきたことなので、いまさら……という気がしているのですが中井さんは私よりも真摯にポストクリティーク論に正面から取り組んで「クリティーク」します。「意図」という困難な主題はそこから出てきていると思います。

とりわけ終章の、圧倒的な絶望を見つめながら希望をつかみ取ろうとする筆致の迫力はすさまじいものがありました。短めの本にもかかわらず、1960年代から現代までの人文学と批評、そしてそれらがその一部であるところの世界の歴史について長い旅をしたような読後感。

二周目、読みます。

 

『ジョン・ウィック:コンセクエンス』(2023)

ジョン・ウィック』は第一作以降はもういいやと思っていたのだけど、卒論の口頭試問など終わって疲れ果て、何も考えなくていいものを観たいと思って放映。

結局、『ジョン・ウィック』シリーズというのは組織を抜けて仕事を辞めたいのに巻きこまれ続けて辞められない人の話で、現代的な老後の不可能性(拙著『新しい声を聞くぼくたち』『はたらく物語』を参照)の話でもあり、また、もう続けたくないのに人気が出ちゃったものだからシリーズ続編に出続けなくちゃいけなくなった俳優(キアヌ)の話なのかもしれない。自己言及だったのか。

第一作の、犬の恨みで大虐殺というネタが面白かったのだけど、というかそれだけが面白かったのだけど、それを微妙に回収。

しかし、この邦題で、しかもconsequenceというキーワードは字幕では何か違う日本語に訳されていて(何だったか忘れた)、意味が分かる人はいるんでしょうか。原題のChapter 4じゃダメだったのかね。

以上!

『かづゑ的』(2024、試写)

熊谷博子監督の新作『かづゑ的』の試写を拝見。

岡山のハンセン病療養所長島愛生園の元患者宮﨑かづゑさんにレンズを向けつづけた8年間。岡山の山間部に生まれたかづゑさんは、10歳で発症し長島愛生園に入所します。以降80年間、彼女はそこで暮らしてきました。

とにかく、撮影とか編集とかではなく(もちろん色々と考えられてはいるのだと思いますが)、宮﨑かづゑというこの得がたい人物を知り、経験できる。これに尽きます。2時間のドキュメンタリーがこんなに短く感じたことはこれまでありませんでした。

上映後に熊谷監督が、ずっと一緒に撮影をしていると、彼女に手指がないことなど忘れてしまう瞬間があるとおっしゃっていたのですが、映画を見ていても同じ感覚に襲われました。最初は手指や足のない明確な「ハンセン病元患者」(ただし彼女自身は「らい病」という名前を選びます。そのすごい理由については本編でどうぞ)と認識されるのですが、いずれそのことを忘れてしまいます。それは、彼女が「健常者」に見えるとか、元患者で「あるにもかかわらず」すばらしい能力を発揮しているとかということではまったくなく、スクリーンを見つめている間に彼女が「宮﨑かづゑ」としか名づけられないような、奇跡的な個体となっていくからです。その個体がなぜ、どのように奇跡的なのかは、私の乏しい文章力では伝えられる気がしません。ぜひ作品をご覧になって体験してください。体験した後のあなたの人生の中には、「かづゑ」がきっと息づいていくでしょう。そして内なる「かづゑ」に励まされながら生きていくことができるんじゃないか。私自身、そのような確信を抱いています。

ハンセン病と療養所については、療養所の患者の間でさえも差別が生じていたというかなり厳しい経験が語られるところが印象的でした。これについては、有薗真代さんの『ハンセン病療養所を生きる』で、患者の中での差異(動ける人と動けない人)の重要性が書かれていたのを思い出します。

また、これは作品内では深入りはされないのですが、かづゑさんのお連れ合いの孝行さんが直方出身である点が気になっていたら、やはり炭鉱と関係のある出自だったとのことを終演後に監督から伺いました。また、療養所には炭坑夫、それも日本人だけではなく朝鮮人の炭坑夫も多く、貧しい人たちも多かったとのこと。これは、ハンセン病の発症が栄養状態や抵抗力とも関連しており、階級的に「平等」な病気では決してなかったことを物語っています。

そういった点は作品で過剰に掘り下げられることはありません。広い背景として確実に感じられます。ですが、そういったことはあくまで背景であり(その選択は正しいと思います)、この映画は「かづゑ」に出会うためのものなのです。

なんだが入れ替わりが激しくてすみませんが、今年のベスト映画が早速更新されました。もう、笑ったり泣いたり忙しく、心の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられました。

3月2日からポレポレ東中野他で全国順次ロードショーです。必ず観てください。