Change?

 非常勤の演習では、「成長」をキーワードに19世紀から20世紀終わりまでの小説(と映画)を読んでいくという、お前本当に大丈夫か的な企画。初回は40人くらい来てしまって、これじゃ「演習」にならんぜよ、と頭をかかえる。

 初回は、できるだけ予備知識を与えずに、「成長とは何か」というお題で作文を書いてもらう。多くは想定の範囲内の答えで、個人の成長と、経済成長や技術の成長は「別の意味」として処理されていたり、あとは「成長とは世の中のリスクに気づいていってそれに対処する術を身につけることである」という、「なるほど」な文章もある。

 全体として想定していなかった傾向は、成長を「変化」という言葉と結びつける、というよりは、ポジティヴでもなくネガティヴでもないのっぺりした「変化」というものが先にあり、成長とはその一ヴァージョンにすぎないといった見方。これが、言葉は違ってもかなりの数に及んだ。この傾向は何なのだろう、と考えてみると、ひとつにはオバマ的な"Change!"、つまり、変化こそが至上命題であるというポストフォーディズム的な感情が浸透しているということだろうか。それにしても、学生たちの言う「変化」に、それほどのポジティヴさがないことも確かである。なかには、たとえば建物が経年変化で劣化することさえも成長である、というラディカルな答えもあり、これはどう捉えられるんだろうとしばらく逡巡。

 ひとつ言えることは、成長といえば「発展」である、ということが、一部の学生たちの中でもすでに常識ではなくなっているということだろう。上記ののっぺりとした「変化」はポストモダンとポストフォーディズムの副産物であるが、同時に集団的な成長の意味の変化を敏感に感じ取ったものでもあり、そこにいかに価値づけをしていくかによって、大化けする可能性を秘めた感情かもしれない。