都市・女学生

 東京への行き帰りのお供その1。

Imagined Cities: Urban Experience and the Language of the Novel

Imagined Cities: Urban Experience and the Language of the Novel

 著者は比較文学者で、本書はフローベールディケンズ、ベールイ、ウルフ、ジョイスカフカの都市経験とその表象を論じる。著者の視点は「モダニスト」そのものという感じで、都市とその感覚経験が生じさせたともいえる小説という形式をじっくり分析。

 正直、これらの時代の都市を問題にするときに、こうやってヨーロッパに限定していいのだろうかと思う。別に植民地そのものを考察対象にせよ、ということではないが、ヨーロッパ都市の経験とは「帝都」の経験でもあるという視点はない。

 ウルフの章についてはMrs. Dallowayをurban pastralとして読む、という指摘はごちそうさま。あと、都市文学における窓の役割という論点もごちそうさま。

 その2。

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

 「教養」本ばやりだが、旧制高校でのマッチョな「教養」を軸にするものが多い中、女学生の教養の問題というのは非常に面白い。しかも、教養主義の歴史の裏側や傍流であるどころか、女学生文化とは、西洋的なものとしての教養(とそれに対抗するナショナリズム)、「たしなみ」という言葉に集約される良妻賢母のイデオロギー、大衆文化やサブカルチャーが、つまり文化の全ての諸側面が収斂する文化であることがみごとに示されている。

 中でも西洋=教養については、ミッション系の学校はそのほとんどが女学校として出発しており、その多くが「英文科」を軸としていたこと、そして今もその傾向はしっかり残っており、さらにはその流れをくむ女子大が全体的に凋落傾向にあることは、ひとつの時代のサイクルが閉じつつあることを象徴しているように思えてならない。