半島を出よ

 さて、早速最近読んだ本から。

 村上龍の『半島を出よ』。

半島を出よ (上)

半島を出よ (上)

半島を出よ (下)

半島を出よ (下)

 この作家、昔は大嫌いでした。なんでこんなおっさんの説教聞くために小説読まなきゃいけないの? という感じで。

 しかし、最近は評価を翻しました。このような、バカ正直なまでの「物語的想像=創造力」に対して、斜に構えていた自分は若かったな、と。ま、そんな歳です。

 で、この作品、ひとことで表現するなら「極東のパレスチナとしての福岡」という思考実験。東アジアのパワーバランスの支点としての福岡。そこを占領する北朝鮮の「反乱軍」。福岡を封鎖する以外に何の方策も打てない日本政府。かたやアメリカ政府は事態を静観。というか、アメリカはすでに「唯一のスーパーパワー」の地位から降りているという設定で、福岡が対北朝鮮の緩衝地帯になることを歓迎している節もある。

 とまあ、起こる出来事のひとつひとつは荒唐無稽そのものなのに、それらの出来事をならべてみて、俯瞰してみると、「うーん、あり得る」とか思ってしまう、そんな近未来小説です。

 ネタバレはまずいので詳しくは書きませんが、上記のような設定で、どうやって話を「落とす」のかしら、と思って読み進めると、これがまたかなり荒唐無稽な解決。しかし、それが小説の仕掛けとしてはすばらしい。

 私は物語論の専門家ではないのでよくわからんが、「現状→事件→現状、もしくは少し変更された現状」というプロットラインは典型。

 しかし、このような近未来もの、つまり「これからあり得る歴史」を語る小説においては、その物語が乱暴に解決されればされるほど、そこに「もしそのように解決しなかったらあり得たかもしれない歴史」という剰余を生産し、それが小説自体の特性(「これからあり得る歴史」)のアレゴリーとして働くのです。

 とかなんとか抽象的に言うとわかりにくいか。例えば、この小説でのアメリカ。アメリカの目論見は、福岡がパレスチナ化することだけど、上記の設定においては、そこには日本が再軍備化するという前提がある(アメリカに軍事的介入をする力は残されていないから)。事実、この「5年後の世界」では、再軍備派がかなりの勢力を持っている。

 ところが結局、事件を境に再軍備派は劣勢に立たされてしまうそうな。

 ホンマかいな? (再軍備化に拍車がかかるんじゃないの?)

 と、思わせることこそが、この小説の目論見なのだと思う。そして、荒唐無稽がリアルな荒唐無稽で終わらない(つまり、それでも読ませる)のは、純粋に作家の調査力と筆力のなせる技。あり得る(かもしれない)未来との対話をさせてくれるという、SFの古典的な醍醐味を地で行く、現在では類い希なる小説です。