生まれる前に終わってしまったこと

 先日Y先生宅で語らっていて、酩酊状態の中妙な残響を残した主題について、またもや酩酊状態で考えている(酔っぱらってブログを書くのは止めた方がいいかもしれないが)。

 私は1974年生まれ、私の父は戦中の生まれである。上記の語らいというのは、「これこれの世代にとって戦争は終わってしまった過去のことで……」というような話だったと記憶しているのだが、私の父のように戦中に生まれた者にとっても物心ついたころに戦争は終わっていて、「歴史」になっていたはずである。

 といった認識にはひとつの落とし穴があって、「戦争」というものを「戦場」に限るなら、別に戦争の時代に生きていたからといって「戦争体験」らしきことをしていないかもしれないということだ。戦争のあいだにも日常は続いていたはずだし、日本全国が焼け野原になったわけではない。それにもかかわらず、上記のような世代にとっては、生まれる前に終わってしまった戦争という出来事が歴史認識を支配するのである。それが生まれる前に終わってしまったという、まさにその理由によって。

 精神分析の知見を用いれば、自己の統一的認識の前には、言語化できない「出来事」があり(両親のセックスの目撃や、性的虐待など)、それが主体の核=亀裂となって残り続けるということになるが、ここでのポイントは、そういった「出来事」が本当に起こったことかどうかが重要ではなく、認識以前の出来事であるという事実によって、その事実のみによってそういった出来事は「核」の地位を得る、ということだ。この核を中心に「自己」という物語が紡ぎ出される。

 陰謀論の魅力もそこから生じているのかもしれないし、探偵小説のナラティヴ(死体=物語の誕生以前に起きてしまった殺人事件が物語を起動する)が多くの物語の基礎をなしている(と、思うのだが)も、そういうことなのかもしれない。それが正しいなら「物語は生まれる前に終わってしまったことを中心に構成される」というテーゼが得られる。ちなみにこのテーゼ自体を物語化してしまったのが、精神分析にはるかに先んじて、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』という、主人公が生まれる前の物語を繰り延べる物語なのだが、これは「物語」というものが生まれる前の出来事を核として構成された物語だということになる。

 話を戻して、人は自分の生まれてくる時代を選べないわけだが、歴史認識という物語が紡がれる際には、特定の時代と場所に共有される「生まれる前の出来事」が存在するということだ。私の世代にとって、それは何だろうか。それを、考えたのである。考えたというより、自分の実感を探ってみたのである。おそらくキーワードは「高度成長」と「68年」。冷戦は「生まれた後」にも存在していた。高度成長や68年は、私にとって、眼鏡をかけ背広を着たサラリーマンが酔っぱらっていたり、安田講堂をめぐって攻防戦がくり広げられる資料映像の世界なのである(という言い方をすると、私より年上の世代はすぐ気を悪くするが、先ほど述べたように人は生まれてくる時代を選べないのだから、仕方がない)。「資料映像の世界」である以上、それは戦場と同じであって、象徴でしかない。だから、「いや、私は68年に学生やってましたが、学生運動なんてブラウン管の向こう側の出来事でしたよ」と言われても無意味である。生まれる前の出来事であった以上、それは起こったかもしれないし、起こらなかったかもしれないものである。それにもかかわらず、それは物語を起動する。この場合は欠如の物語を。一方でこれ以上の成長もなければ、他方に革命もない。ないないづくしの物語を。