『マッドマックス:フュリオサ』(2024)

【ネタバレ注意】

ということで、楽しみにしていた『フュリオサ』です。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でシャーリズ・セロンが見事に演じたフュリオサの前日譚をアーニャ・テイラー・ジョイが演じました。『怒りのデス・ロード』はエコロジカル・フェミニズム的なユートピアの喪失を乗り越えて、フュリオサらの女たちが、ユートピアではなく「現実に存在する居場所」を獲得するという意味で感動的な物語になっていました。

そのようなフュリオサの前日譚ということで大いに期待が膨らんで、『キネマ旬報』の予想記事(?)でもそれを書いたのですが、その期待の水準からするとちょっと残念な部分も否めなかったかもしれません。(いや、面白かったし感動したのですけどね。)

たぶんまずさは映画の構造そのもので、ちょっと色々やろうとし過ぎたのかもしれません。フュリオサがフュリオサになる物語が中心にあるべきところに、『怒りのデス・ロード』で存在感を発揮したイモータン・ジョーと彼のシタデル、フュリオサを緑の地から誘拐して母を殺すバイク軍団の領袖ディメンタス(さらにはガスタウンとブレット・ファーム)という形で多中心化しつつ、ジャックとの共闘関係と恋愛関係も、と、追うべき筋が多すぎるというか。脇筋と中心がしっかり分かれていれば問題ないような気もするのですが、とりわけディメンタスの物語らしきものがすごく中途半端な気がしました。単なる疲れた中間管理職みたいな諦念で生きていること自体を表現したかったのかもしれませんが(事前情報からはこんなのだとは予想しなかった)、どうも、この人何がしたかったの?というのを拭えない……。

あとこれはちゃんと説明はつくのかもしれませんし、男たちがフュリオサの存在を忘れていること自体が重要と言えば重要なモチーフなのですが、シタデルから逃走はせずに男としてパッシングするところまではいいのですが、女であることがバレて警備隊長になった後もイモータン・ジョーの息子などに気づかれないのはなぜ? 顔塗ってるから?

とまあ、ちょっとディスってしまいましたが、ディメンタスの最期(あれが本当なら)については、女を産む機械として扱うシタデルのような男性権力に対して、男性の身体を植物のための肥料にしてしまうというのは、同じ暴力をミラーリングで返しているということではなく、前作で提示されたエコロジカル・フェミニズムにしっかり根ざした結論になっていて、そこはとても納得でした。