クィア+青春映画の功罪〜『ファンフィク』(2023)

『ファンフィク』はNetflix配信のポーランド映画。マルタ・カルヴォフスカ監督。

LGBTQ+学園もの、などと「箱」に入れるのはどうなんだろうと思うものの、一応そのように紹介できる映画です。主人公のトシアが自分の苦しみの原因が性別違和であることに気づき、「トシェク」へとトランスし、同級生でゲイのレオンと恋に落ちる。

これはポーランド語が分からないと細かいニュアンスが分からないと思い、ポーランドの友人に細かく聞きながら観たのですが、まずTosiaとTosiekはそれぞれAntonina、Antoniの愛称で、女性名と男性名。これはなんとなく分かる。

疑問だったのは自分が男性だと気づくシーンで、一人称が「僕」に変わるところで、ポーランド語の一人称にジェンダーがあるのかしら?と思ったらそうではなく、過去形と未来形の格にジェンダーがあって、トシェクは「髪を切った」というのを男性の格で言っているのだそう。字幕ではそれを「僕」で表現したわけですね。

二人の関係性と恋は感動的だったものの、映画の作りと、トランス映画やクィア映画のあり方という意味でちょっと不満が残りました。

映画の作りという点では、ちょっとキャラクターを役割に従属させすぎというか、プロットの都合でキャラクターを設定してしまっている感があって、キャラクターの心の動きに納得ができない部分が結構ありました。レオンの気持ちがいくつかの場面で謎だとか、最初は悪役だったマックスの「改心」が説得的ではないとか。

それ以上にちょっと由々しいかもしれない問題があって、それはこの映画単独の問題ではないのであまり言うべきではないかもしれません。それは、クィア映画を青春映画(ばかり)にすべきではないかもしれないということです。クィア映画と青春映画の相性がいいことは確か。というのも、いずれも確定されない、不定型な愛や性的指向を主題とするので(例えば同じくNetflixの『ハーフ・オブ・イット』は本当に好きでした)。ですが、そのような愛のもとに思春期とクィア(とりわけトランス)を包含するのは、色々とまずいような気が、「少女たちが勘違いしてトランスしている」というヘイト言説が跋扈している中では、するのです。

もちろん青春映画にしてもいいのですが、例えばもっと年配者のクィアを扱う映画(『人生はビギナーズ』のような)がたくさん作られて、バランスが取れるといいなと思うわけです。

その点では、It's not my choiceという広告コピーが象徴的な役割を果たしたことは重要かもしれません。それは自由な選択などではない。