教科書

 昨日は『愛と戦いのイギリス文化史1951-2010年』の「まとめの会」。

 「合評会」ではないことには理由があって、基本的に教科書として編まれたこの本を「いかに使っていくか」ということろに重点を置いたと理解しています。もちろん「合評会」という形式でそれもできるんだろうけど、やはり合評してしまうとそっちに持って行きにくいというか。

 この教科書は英文科だけではなく、むしろ英文科以外の学部の教養科目の教科書として作られている。前提としては、昨日話題になった通り、「ナショナルな文化」としてのイギリス文化に学生はこれっぽっちも興味がない、というところから始めなければならない。

 そこで二つの選択肢が出てくると思う。ひとつは学生たちの知らないイギリス文化が具体的に面白いですよ、と示すこと。こちらのアプローチが多くの場合取られるような気がする。しかし問題は、イギリスで「ポピュラー」な文化が日本の学生にとっては非常に縁遠いということ。例えば本書にはテレビを扱った章は(コラムと王室の章の一部を除いては)ないのだが、これはある程度積極的な選択である。テレビというのはじつはライヴ性が非常に高く、またハイコンテクストなので、アクセスしづらいことこの上ないのだ。

 またこのアプローチは下手をすると「こんな面白いことの面白さが分からないのはバカ」というような、対象は異なりこそすれ飽きもせず繰り返されてきて、英米文学の苦境を招いている態度に陥る可能性もある。(だからこそ「文化」についてのメタ思考が必要なのだ。)

 というわけで第二のアプローチとしては、「イギリス文化」をナショナルな文化としてではなく、私たちの現在を構成している系譜として見るというもの。もちろん、本書はこの後者の方針を基本としている(つもり)。

 昨日の会では同僚の三浦さんにお願いして「コメント」をしてもらったが、そのみごとなコメントはそのような本書の「肝」の部分を鋭く射貫いていただいた感じで、非常にうれしかった。つまり、現在の系譜として見るなら、少なくとも福祉国家から新自由主義へ、という視点は欠かせないし、その歴史の経験は多かれ少なかれ日本の人間にも共有されているはずである。(その経験を意識化したり言語化したりできているかどうかは別として。)

 その観点から、今調べを進めている「要求者組合」の話を入れられればよかったなあ、と個人的には思うのだが、これは致し方ない。

 それはともかく、いかにこの本を使うか。いかに経験を伝承するか。飲み会でも話題となったが、20世紀後半の経験は早くも失われつつある。私自身も知らないことだらけだし。それを学び、伝える。そういうことだ。

 追記:このまとめの会については川端先生のブログをぜひご参照ください。拝読して、自分の浅さになんとも赤面してしまいました。

愛と戦いのイギリス文化史―1951‐2010年

愛と戦いのイギリス文化史―1951‐2010年