私はカナダ人

 ああ、なんだか疲れた。なんでこんなこと(どんなこと?)になってんだか。

 そんな中(どんな中?)、こんな古本をいただく。

ニュー・レフトの思想 (1968年)

ニュー・レフトの思想 (1968年)

 不覚ながら知らなかったが、こんな翻訳本あったのね。ペリー・アンダーソンの「現在の危機の起源」の訳が入ってるじゃありませんか。しかし、目次を見て首をかしげる。「トム・ナリン」なる人物が。ああ、「トム・ネアン」の間違いね、と思って訳者あとがきのあたりを見ると、ちゃんと(?)"Tom Narin"と表記してある。

 いや、わたし自身もこういう類の間違いをして赤面したことあるので、人のことは言えませんがね。

 それにしても、この訳書は抄訳で、レイモンド・ウィリアムズの「社会主義にむけて」が割愛されているのは、どういう判断なんだろうと、やはり首をかしげる

 これが届いたので思わず観る。

 ああ、そうか。X-MENシリーズって、おもいっきりウォルター・ベン・マイケルズじゃん。人間対ミュータントという対立軸が、ミュータント側を「主体」としたかたちで、提示される物語。はじめは政治的アフィリエーションの問題なのかとおもいきや、それがいつの間にか「自分は何者か」の問題にすり替えられる物語。そのすり替えを行うのに、ローガン=ウルヴァリンという「無頼」キャラクターが好適なわけ。無頼だぜ、と思ってたら、じつは隠されたアイデンティティが存在していて、それとの闘争を強いられる、という。

 X-MENシリーズで、ウルヴァリンに託されて提示される、過剰に「カントリー」(=無頼)なイメージというのは、「アメリカ」のアイデンティティの原型なわけ(なんて断言すると大変な誤解を招きそうだけど)。そしてこのシリーズの基本的な物語とは、その無頼性を掘り崩す、ミュータントであることによるアイデンティティ・クライシスを、筋肉によって無理矢理解消しようとする物語なわけ。

 さらには、ずっと前に『真昼の決闘』について書いたこと(ここ)が、ここでもあてはまる。つまり、ウルヴァリンは共同体の法の外側で、みずからの法のみに従って生き(だから「無頼」)、そのような法の外部性であるがゆえに共同体を拡大する触媒になる、という、アメリカン・ヒーローの典型なのだが、ここでの違いは、その共同体が「人間」対「ミュータント」という、お互いのアイデンティティを掘り崩しあうような存在であること。『真昼の決闘』的な共同体は、「アイデンティティ」へとすり替えられる。

 それにしても、「ユダヤ性」が前面にでていた本編シリーズと比較すると、この映画はそれをきれいに消し去って観念的「アメリカ」に固着しているのは何だろう。ちなみに、ヴェトナム戦争に嫌気がさしてカナダへと逃亡するという物語も、これはまさにアメリカ的原型物語なのです。"I'm Canadian"というセリフの皮肉なことよ。詳しくはこちらを参照。(いや、これ以前の原型があるのかな?)

The Things They Carried

The Things They Carried