立法者の悲哀

 『ダークナイト』についていただいたコメントに触発されてDVDをひっぱり出す。

真昼の決闘 [DVD]

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 なるほど、『バットマン』がいかに「アメリカン・ヒーロー」の系譜の典型なのかがよく分かる。「自分だけの正義をつらぬこうとすることによって共同体からはみ出してしまうヒーロー」の系譜。むしろひっくり返して、「共同体からはみ出すことによって確認される自分だけの正義」といってもよいかもしれない。「自分はこれだけ正しいことをしているのに、なぜみんなは理解してくれないの?」という嘆きそのものが、「正義」の確認になる、ということは靴を投げつけられることによってブッシュの「正義」の最後の確認作業は完遂されたということか。

 ただし、この系譜においては、共同体を超越する「法」があって、主人公がそれに従うというわけではなく、共同体のプラグマティックな法(プラグマティックであるがゆえにそれは必然的限界をもつ)の外側の「無法」へと、主人公がひとり法を適用させ、無法(西部の荒野)に法をもたらすのである。これと、『アンティゴネー』的な、法を不条理なまでに徹底することによって法の不条理性をあばくとこととは、根本的に異質である。前者にとって法は(プラグマティックであるがゆえに)はじめから不条理なものであり、かつそのこと自体には「何の問題もない」。「みんなが従えばそれが法」なのだから。ウィル・ケーン的ヒーローは、その「みんな」の範囲を広げるエージェントなのである。「みんな」の範囲を広げるためには、主人公が体現する法が理解されない=主人公が共同体からはみ出すという手続きが不可欠になる。最後の、保安官のバッジを地べたに投げつける挙措は、町の人びとへの決別を表すどころか、主人公の「はみ出し」=「『みんな』の範囲の拡大」の確認の挙措なのである。これ、いかにもアメリカ的物語なわけだ。