謹製悲劇

 いつもながら4月の最初の授業は疲れますわ。本日は本務校の授業開始日でとりあえず2コマ。

 帰宅して夕刊を見ると、一面に国公立大の助成金についてデカデカと。第三者評価の結果に従って、「努力」を示している大学に助成金を配分すると。ああ、これで、「努力しているところを示すための仕事に努力が割かれる結果、人的リソースをあらゆる意味で失っていく大学」が続出するんだろうなと嘆息。

 しかし、私大に勤める私にとってそれは対岸の火事ではなくて、続けて読んだのは立命館大学の新学部が新入生を取りすぎて、一旦入学した学生から、他学部への転籍者を募っているという話。一般の方はあまりご存じないかもしれないが、私大もちゃんと助成金をもらっており、定員を過剰に超える学生を取ってしまうと、助成金打ち切りなどの大学にとって非常に痛い事態を招いてしまうのだ。立命館は最初からそんなに取るつもりはもちろんなくて、「歩留まり」(合格者中の入学者の割合)を読み損ねたわけだ。新学部だからしょうがない部分もあるだろう。*1

 昨日の晩は、久々にテレビの前に座り込んで、NHKETV特集を観る。大西巨人のドキュメンタリー。例の「無責任の体系」のところで、天皇制がどう扱われるのかと身構えて観たが、結局は完全には回避せず、しかし『神聖喜劇』の再現ドラマではなく、大西巨人本人の口から語らせる形になっており、巧みといえば巧みだった。

 東堂太郎の人物像と大西本人が重なる部分(記憶力を武器に抵抗するところなど)は、ふーん、と感心しながら観る。

 締めの台詞がすごかった。「作家とはなんでしょうか?」という質問に対し、「うーん、そんなのすぐには出てこないけど……俺のようなものさ」と。ちょっと、決まりすぎでしょう、それは。(しかも、その後のカメラワークも、はかったように見事で、どうも演出くさい……。)でも、よく分かる。大西巨人には「作家とは何か」などということはどうでも良くて、自分の書くべきことと書きたいことを書いた人間であるという、ただそれだけなのだ。作家に限らず、ものを書く人間はみんなそのような単独性において書いている、と。だから、「俺のようなものさ」というのは、「我こそ『作家』である」などということでは全くなくて、あえて「作家とは何か」という質問に答えるなら、自分の生きてきた単独的な人生の全重量以外に、答えはないということなのだ。

*1:とはいえ、転籍でなんとかしようというのは人(特に当事者の学生)をバカにした話で、ルール違反というか道義にもとるのだが。