ポモ

 一週間ぶりにこんばんは。

 風邪は治ったかとおもいきや、いざ今週に入ってみると、治っておらず。2コマも授業をすると声が枯れる……一週間苦闘し、ようやく、本当に、治ったみたい。

 本日は東京にて研究会2つをはしご。

 ひとつについてはいずれ(一週間後くらいに)書くことになりそうなので割愛。

 もうひとつは「建築におけるポストモダン」について一級建築士の方に話を聞く。参考文献がこれ。

建築の解体―一九六八年の建築情況

建築の解体―一九六八年の建築情況

 文学でもそうだけど、モダン/ポストモダンというと、一方に「いまだモダンである」という連続性の主張と、そうではなく断絶しているという主張が終わりなき闘争をくり広げるわけだが、建築において「解体」を叫んだとされるこの本、読んでみれば、どこからどう読んでもポストモダンを高らかに宣言しているわけではなく、モダンの最終形態としてのポストモダンのどん詰まりぶりを執拗に書いているようにしか読めない。ポストモダンという時代区分よりも、ポスト68年という歴史性が問題だと思われる。この点、今日の前半戦とリンク。

 ところで、60年代建築におけるキャンプ的なものは、まさにここのところ読んでいるフィリップ・K・ディックの世界。ディックはキャンプだなあ。あの閉塞感はそういうところにもあるのかもしれない。また、田園都市計画のような都市計画と、60年代建築がいかに遠く離れていることか。前者が「アンチ・モダン」を掲げつつ、手段としてはテクノロジーを駆使するのに対して、後者はあっけらかんと商業性を「内容」にしつつ、実はテクノロジー上は旧態依然だったりするわけだ。モダンの「ゆがみ」の、二様の現れ方。関係なく濫読しているものがリンクしてきておもしろい。

 余談。

 昼食に伊勢丹に行くと、モンブラン(万年筆の)のブースになぜかヴァージニア・ウルフの肖像が。「何、これ?」と聞くと、モンブランが「作家シリーズ」という筆記用具セットを発売しており、ウルフもラインナップされていると。これは、ウルフ研究者ならば持たねばなるまい、と思って、値札を見て、やはりブルジョワ作家の名を冠する万年筆には縁がないことを悟ったとさ。