胡蝶の夢

 ゴールデンウィークをまるまる費やして、風邪が完治しました。最後の二日は予想通りたまっていた添削や来週の授業準備。

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

 1969年の作品。『パーマー・エルドリッチ』と同じく、ディックが一番脂ののっていたころの作品で、共通項が多々。ひとつの爆弾の炸裂によって、自分が死んでしまったのか、それとも自分以外の世界全てが爆破されてしまったのか、分からなくなる、というお話。もしくは、自分が夢見ている蝶なのか、蝶の夢を見る人間なのか分からなくなるお話。

 偶然にも、少し脱線して読んだオールディスの『ノン・ストップ』との対照が興味深い。『ノン・ストップ』が、書いたように、「(隠された)世界の真実の発見と解放」という筋をもつなら、ディックの作品では現実だと思っていた世界が根源から揺さぶりをかけられ、それが何らかの解放に向かうわけではなく、ひたすらグズグズと崩れていく。前者では「認識の審級」が上方展開していくが、後者ではそのヒエラルキー自体が崩壊する。印象的な記述を引用すると、こんな感じ。

ジョーは急に自分が無力な一羽の蛾になった気がした。現実という窓ガラスにぱたぱたとぶつかって、外からおぼろげに中をのぞいている一羽の蛾。(191頁)

 この一節、ちょっとうまく書きすぎの気配はあるものの、ディックらしい。ここでの窓ガラスの隠喩は現実と非現実を切りわけているのではない。現実の「中」と同様に、その「外」と、窓ガラスに無力にうち当たる蛾は、完全なる「現実」として存在しているのである。かように、ディックは非現実や幻想をそのようなものとして提示せず、あくまで「現実」として提示する。それによって、上記のような「認識のヒエラルキーの崩壊」が可能になっているのだ。

 さて、この違いを、ユートピア小説とディストピア小説の差としてしまっては、ディックのこの閉塞感を正当に表現できないと思う。では、どう表現できるか。一瞬、50年代と60年代の違いというところに乱暴に歴史化したくなったが、それは例外がいくらでも出てくるだろうか。しかし、『ノン・ストップ』とディック作品の差異には、やはり「地政学的想像力」の違いを感じる。『闇の奥』と『結晶世界』の違いのような。そういう意味では『ノン・ストップ』は50年代作品としては「時代遅れ」感(もしくは「一時代の終わり」感というべきか)があるわけだが。