ミュータティス・ミュータンディス

 ネタバレ注意報。警報レベル5。

スラン (ハヤカワ文庫 SF 234)

スラン (ハヤカワ文庫 SF 234)

 「ミュータントもの」の古典。1940年の作品。2*世紀の地球は、人間とスラン、無触毛スランという三つの種に分かれて、抗争の舞台となっている。スランとは、テレパシー能力、読心能力のみならず高度な心的能力と筋力をもったミュータント(どうやって生まれたかは終盤までわからない)。人間側の歴史では、かつてスランは世界を征服しようとし、人間の赤ん坊をスラン化しようとしたとされているが、現在は人間が覇権をとりもどし、独裁者のもとスランを弾圧している。話は主人公のスラン、ジェミー・クロスが成長しながら仲間のスランを探しもとめつつ、スランと人間との全面戦争を阻止しようとするという筋。

 物語が巧みで、大変に面白い。読心能力という道具立ても最大限活かされて、スリリング。なんといってもミュータントものの起源とえる作品だから、その後の『スーパーマン』(あれは、宇宙人か)『バットマン』(あれは、人間か)『スパイダーマン』などなどの源流にあるのだが、今熱いミュータントものといえば、これでしょう。*1

 ミュータントものはどうしても人種に関するパニックの表象として読みたくなる。『X-MEN』も、冒頭はなんとポーランド(だったかな?)のユダヤ人ゲットーから始まる。ミュータントのX-MENユダヤ人なのだ。ひるがえって『スラン』はというと、これはむしろかなり素朴なダーウィニズムに基づいた人類の進化の物語(スランは結局、人間の突然変異体だと分かる)である気がする。「人間の独裁者だと思っていた人物がスランだった」というオチと時代背景を考えると政治的寓話としても読みたくなるが、それほど面白い結論には至らないだろう。

 それよりも、ミュータント・超能力ものといえば、「超能力を持つ故に人間社会から疎外される主人公が、孤独の正義を行う」という典型プロットがあって、それはまさに現在の世界でのアメリカの自己表象であるという指摘(内田樹だったかしら)には説得されるものの、そのプロットの源流たる『スラン』にはそういった政治的寓話が読み込めないところが重要か。プロット上、それは「恨み」「復讐」という行動原理が欠如しているところに由来している。人間と無触毛スラン(「純スラン」からのさらなる変異体)は、かつて自分たちを弾圧したスランに対する「恨み」を行動原理とする。しかし「高度な精神統御能力」をもったスランは「純粋な正義」のみを行動原理とする(実際、主人公ジェミーは、恋に落ちた女性スランが殺されても「復讐」には走らない)。復讐心から超越している(=歴史から超越している)ゆえに世界の調停者たりうるスラン──そのようなユートピアニズム=イデオロギーがこの作品の核にある。そう考えると、この作品に描かれているこの新しい千年期に、復讐心によって戦争を起こしてしまうアメリカの姿には、「一時代が終わった」という感覚を抱かざるを得ない。


追記:町山智浩TBSラジオ「コラムの花道」で、『スーパーマン』のヘイブライズムについて話している。こちらで聴けます(7/25を参照)。これを聴くと、『スラン』は世界の話ではなく、30年代の不況、移民労働者の苦難といったアメリカ国内の状況を背景に(ヴァン・ヴォクトはオランダ系、カナダ生まれ)読んだ方がいいと思えてきた。

*1:ttt氏の指摘を受けて訂正。『スーパーマン』原作は1938年。ジェリー・シーゲル原作、ジョー・シャスター作画(両者ともユダヤ系)で連載が始まっている。『バットマン』は1939年。『スラン』は源流でもなんでもなく、これらと同時的な現象です。いずれにせよ、重要なのは影響関係よりも同テーマの時代による'mutations'であろう。