初遅刻

 土曜に大学院の中間発表が終わり、日曜は東京へ。

 Raymond Williamsの読書会。私がWilliamsを読む基本的な動機というのは「『英文学』も『批評』も同じくらいダメになった今、その起源を改めて問うことが必要だ」ということ。その問題意識から浮かび上がるのはまず1920年代から30年代、「英文学」が「本国」においてディシプリン化された時代、つまりFrancis Mulhernの書名を借りるなら'The moment of Scrutiny'。そのスクルーティニー派と後のニューレフトとの断絶ではなく繋がりにこそ「失われた文学批評」の系譜がありはしないかということである。

 Williamsが『文化と社会』を書いたのは35才の時。その知識の量はもちろんであるが、この老成はなんなんだろう。

 で、徹夜で飲んだおかげで月曜はつぶれ、火曜の朝「先生、教授会なんですけど……」という電話に起こされる。聞いてないよー! と思って大学に駆けつけたら、メールボックスには「お知らせ」が。メールで伝えてくれと思う。

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広島 記憶のポリティクス

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 著者献本。