さまざまな別れ

 なぜ朝から書いてるかというと、サリンジャーが亡くなったとのニュースを読んだので。わたしがそんなにサリンジャーに思い入れあるの?という向きもあろうが、告白すると、サリンジャーは「英語で読んだ最初の作家」だったりする。高校3年の冬、受験勉強の仕上げじゃい、と小説でも読まんとして、たぶん兄が所有していた『ライ麦畑』を読み、続けて『ナイン・ストーリーズ』や『大工よ……』なんかにはまりこんだ。

 これって自慢しようとしているのではなく(あ、奇しくも今週あった同僚の大先生の最終講義の話とかぶるが)、かつての高校生の英語の読解力ってそれくらいはあった、ということ。(なんていう言い方は、「今ではない」を前提にしてしまっているが、実際はよく分かりません。少なくとも学生を見ていると、ないような気がするのだが。)

 その最終講義も含めたここのところの話。季節柄な行事が目白押し。その最終講義では「活字にはできない、墓までもっていかないといけない話」を拝聴し、ということはわたしもそれを墓までもっていかないといけないわけですな。あとは博論ウィークで審査一件に審査の傍聴一件。前者はあまり書いてはいけないような気がするので置いておくが、後者についてはすでに一緒に仕事してるKくんのディフェンスということで応援に。充実した審査でした。話題になっていた、ウィリアムズにおける「代表・典型」はクリティカル・ポイントで、わたしもそこを出発点にウィリアムズを論じてきたつもり。なんというか、この論点を「PC的」に処理する、つまりウィリアムズの「ヤバイ」ところを回避するような形ですり抜けようとしてしまうと、ウィリアムズの肝心の部分が失われるような気がする。

 審査しといてなんだが、自分の博論をそろそろ本気で。今年いっぱいにはぜひ形にしたいところ。でも、精神の弱いわたしなので、「お前、今年中に博論書くって言ってただろ」と、この記述を根拠に突っ込みつづけていただければ幸い。実際、既発表論文からめぼしいものをピックアップして並べ替えてみるところまではやったのだが。分量だけはもう十分だが、さて。そのうちの重要な章になるはずの「二つの文化」論については、再び過剰とも思える褒め言葉をいただき恐縮。まあ、聞こえないところでは悪口も言われるんだろうけどね。

 あと季節柄といえば、ニューレフト研究でも有名なうちの社会学部の先生が退官で、博論審査でお近づきになった際に「イギリスの社会主義思想やってるなら、雑誌があるからもってけ」と言われ、『ニュー・レフト・レビュー』から『ニュー・ステイツマン』『マルキシズム・トゥデイ』『ソーシャリスト・レジスター』などなど、段ボールに10箱あまりいただく。まあ、ネットで読めるものもあるしうちの図書館にはそういうのはだいたい揃っているが、手元に現物があるというのはまた違う話。

 訃報で始めて訃報で締めますが、ハワード・ジンも亡くなったとのこと。