産業化と共同体

 昨日は年内最後の授業を終えて、夜は楽しい系の忘年会(というか、最近はもう楽しくない系の飲み会には単に行かなくなってたりして)。

 そこでのMさんとの会話、結構いいこと言ったような気がするのでメモ。アメリカのモダニズム小説には「共同体小説」的なものが色濃いが、イギリスの場合どうなるのか、というMさんの質問に答えるうちに、重要な差異は「産業小説」の有無ではないかと申し上げる。産業小説というか、産業化の経験が分節化されてきているか否かという問題。

 これはかなり偏見と憶測が入っているかもしれないが、アメリカの小説って、「自然対人間(しかもその人間は「個人」)」という対立を措定して、人間が自然を克服・征服するという原型をもっている気がする(『白鯨』が原型)。そこで忘却・隠蔽されるのは、産業化のプロセスではないか。

 レイモンド・ウィリアムズが『イングランド小説──ディケンズからロレンスへ』で引く系譜とは、いわば共同体小説の系譜であるが、その際の共同体小説とは、つねにすでに(産業化によって)疎外された共同体の小説なのである。その言い方が悪ければ、「つねに産業化のプロセス上にある小説の系譜」というか。もちろん、『文化と社会』の「産業小説」の章も参照されるべきだろう。この系譜においては、産業小説とはすなわち(疎外のプロセスにある)共同体小説なのである。イギリスのモダニズムはそのような共同体=産業小説の系譜上にはない。それは単純な話、メトロポリス小説だからである。産業化の経験は、近代が進むにつれて、「田舎」でこそ感じられるものになる。

 そんなことを考えるのは、新自由主義にあって「脱産業化」が言われる際に、この産業化のプロセスの経験の有無というのは決定的に重要になるように思えるからである。「自然対人間」というショートカットにおいては、それらの中間を媒介しているはずの、産業化のプロセスが抑圧される。反対に、メトロポリス的な脱産業化の経験からも、「脱」といいながら肝心の産業化が忘却されるという事態の系譜は、イギリスのモダニズム小説に求められるかもしれない。*1

 なんて言っちゃうと産業化の経験を描いたイギリス小説はえらい、それに比べてアメリカ小説は……。となりかねないが、そうではなく、おそらくアメリカ文学史においては産業小説の系譜が抑圧されてきているはずであり(Oさんの、「ジェイムズかドライサーか」というやつ)、その系譜を引きなおす作業が可能だろうということ。というわけで、「産業小説古今東西」というシンポジウムをどこかでやることを提案申し上げたしだい。

*1:Oさん(上記のOさんとは別人)とのメールのやりとりで気づいたのだが、この「産業化の経験の抑圧」と、前回の新自由主義読書会でわたしがニコラス・ローズに対していだいた不満、つまり「潤沢経済は本当に大前提か」は、みごとにリンクしている。あとつけ加えると、後期資本主義においては「自然対人間」が再浮上する傾向がある(エコロジー運動とか)と思うのだが、これもまさに産業化の経験の解消のためであろう。すこしずれるが、昨日のMさんの話では、『白鯨』は書かれてからしばらくは読まれず、1920年代に捕鯨が「産業」として盛り上がった際にポピュラリティを獲得したそうなのだが、これはまさにそのような「想像的解消」の一例だろう。